さいごう たかもり
1827-1877 享年51歳。
薩摩藩士。
■通称:小吉、吉兵衛、吉之助(吉之介)、
諱:隆永、隆盛(※実父の名を受け継ぐ)、号:南洲
□薩摩藩主・島津斉彬に大抜擢され、 江戸詰となる。 □将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動 が起こると、斉彬の命で東奔西走 して活躍した。 □井伊直弼が大老となると安政の大 獄が実施され、幕吏の追跡を受け 、僧月照とともに帰藩する。 □佐幕論に傾いた薩摩藩からも追わ れる身となった隆盛は、1858年、 月照とともに投身自殺を図ったが 自分だけ助かる。 □奄美大島へ島流しとなる。 □1862年、許されて尊攘運動を開始 するが、薩摩藩の実質的権力者・ 島津久光に嫌われて、再度流罪と なり沖永良部島に流された。 □1864年、同志の大久保利通らの赦 免運動により、島津久光の許しを 得て、帰藩を果たす。 □蛤御門の変、第一次長州征伐では 藩論を統一し、幕府側に立って戦 った。 この時、薩摩藩は会津藩と密約し 、会薩同盟が結ばれ、公武合体の 実現を共に目指した。 この政変で長州藩を京都より締め 出すことに成功すると幕府を中心 とする公武合体派の会合が朝廷内 で開かれた。 この参与会議は、当初からつまづ きを見せ、朝廷、幕府、薩摩藩、福 井藩、会津藩など諸藩の意向は食 い違いを見せた。 □第二次長州征伐が勃発すると討幕 派へと転身した。 □大久保利通らとともに王政復古を行 い、戊辰戦争では、大総督参謀と して勝海舟と会見。 江戸城を無血開城させる大功を立 てた。 □明治政府では、参議となり廃藩置 県を断行する。 □征韓論を主張し、士族の危機を脱し ようとするが大久保利通、岩倉具 視らの反対にあい敗北。 下野する。 □帰郷後、私学校を開き、若き薩摩志 士たちの育成に励む。 □西南戦争が勃発しその頭領に祭り 上げられた。 熊本城を攻撃したが名城ゆえに 落とすことができず、撤退し、ついには 、重装備の官軍の前に敗北。 城山で自刃した。 |