薩摩藩

さつまはん

 西南雄藩の筆頭を行く薩摩藩ではあったが、幕末時代
には同様に藩の財政難に直面し、その打開策が模索され
ていた。
薩摩藩の財政窮乏を救ったのは、薩摩藩士・調所広郷(
ずしょひろさと)であった。調所はまず、膨大に膨らんだ
藩の借金を強引に踏み倒し、藩収益の圧迫を緩めた。
 ついで、奄美三島の黒糖の専売を強化し、収益増強を
図るとともに琉球を通じて、中国・清国との貿易を推進し
た。また、密貿易にも手を伸ばし、莫大な利益を獲得する
ことに成功する。
 こうした非常手段に訴えた強引な財政建て直し策は、
功を奏して薩摩藩の財政難はミルミルうちに解決して
いった。幕末動乱を迎える前に薩摩藩は、確固とした財
源を得る機構を成すことができたことで、その後の動乱
に活躍するために欠くことのできない資金を確保したので
あった。
 藩の財政難を救った調所ではあったが、その後に薩摩
藩で起こった家督争いで英明と名高い島津斉彬を嫌って
島津久光側に立った。しかし、幕府の介入により、島津
斉彬が藩主の座に就き、調所の思惑は外れた。
 調所が稼いだ藩の財金は、島津斉彬が推し進めていく
西洋化の資金となった。斉彬は、日本国内随一と賞賛
されたほどの西洋通であったが、それ以上にその豊富な
知識を生かして、実践を成すことに勤めた。

 西洋溶鉱炉を建造し、良質なガラス・紡績・化学薬品・
農工具などを開発・生産させ、近代化に向けた殖産事業
を手広く展開したのであった。
 藩の財源確保と藩の西洋化方針を成したことで、薩摩
藩は当時の日本国内を代表する先進藩となっていった
のである。
 その後は、斉彬を中心とする国政参与の姿勢が取られ
、将軍継嗣問題や条約勅許問題など野心的に国政に
携わっていったが、井伊大老という天敵が現れて、半ば
挫折を味わう。
 反撃も斉彬の急死により、一時は活躍の場を失うも、
大久保利通らの巻き返しによって、島津久光が動き、
京都へ藩兵を率いて上洛するという豪快な政界デビュー
を果たすと一躍、薩摩藩は尊攘派の筆頭へとのし上がっ
ていった。
 その後は、公武合体側に立って、8・18の政変や禁門の
変を経て、公武合体政権を目指した。しかし、各藩の藩主
たちの統率は難しく、各藩主たちによる合議制の政権は
あえなく頓挫することとなる。
 その後は、土佐藩を仲介して、長州藩と和を結び、薩長
同盟にて、ついに倒幕思想に行き着く。長州藩と協力し
合い強敵・幕府と戦い、ついに戊辰戦争にて幕藩体制を
打ち崩した。

 その後は、薩長藩閥による明治新政府を樹立し、日本
の近代化を目指したが、途中で不平士族の問題につまず
き、あえなく薩摩藩の英雄・西郷隆盛を西南戦争にて失う
に至る。