佐賀藩 さがはん
≪場所≫ 佐賀市
幕末期、佐賀藩でも財政難に苦しんでいたが、弱冠17歳
の若さで10代藩主となった鍋島直正は、自ら率先して藩
の財政再建に取り組んだ。
質素倹約を奨励し、400人の人員整理を断行し、藩の
出費を極力減らすことに務めた。一方で小作農を救済する
方式を採用し、不在地主の土地を小作人に与える分配を
成して、財源の確保を成している。
特に特産品の販売を強化し、燃料消費時代の到来を
予見して、早くから石炭の発掘を成して、その石炭を諸藩
に売り出し、巨利を得ている。
こうして藩の財政を潤すとともに藩校・弘道館の内容を
充実化させ、西洋の進んだ学問を熱心に藩士たちに学ば
せた。直正自身も”蘭癖大名”とあだ名されるほど、西洋
文明に高い関心を持ち、西洋文明習得を奨励した。
長崎の防衛に当たっていた佐賀藩では、早くから海防
強化の必要性を悟り、藩政改革が成功するに至ると、莫大
な費用をかけて、西洋方式の鉄製大砲を量産する施設を
建造し、成功を成してる。
これにより、海防強化を実施し、同時に佐賀藩軍制の
改革にも乗り出した。こうして、佐賀藩は幕末の動乱が訪
れる頃には、国内屈指の近代軍備を有した雄藩として
知られるようになる。
1863年(文久3年)には、当時最新鋭の大砲であった
アームストロング砲の鋳造に成功し、艦隊用のこの大砲
をあえて陸戦用に改良を加えて、戊辰戦争の際に大いに
活躍を見ている。
戊辰戦争では、緒戦となった鳥羽・伏見の戦いに参加
することができず、この遅れた参軍が佐賀藩の飛躍を
疎外する要因となってしまった。
だが、戊辰戦争にて国内争乱を素早く終らせることが
できたのも国産西洋兵器を量産した佐賀藩の武威による
ところも大きく、近代軍需産業の礎を築いたという点では
大きな功績を残した藩であった。