沢 宣嘉

さわ のぶよし

1835-1873 享年39歳。

□姉小路公遂(あねこうじきんかつ)の次
  男として生まれる。
  幼い頃から非凡な才知を現し、和歌・剣
  術・馬術に長けた。

  17歳の時、公卿・船橋家の支流である
  沢為量の養子となっている。

□幕末動乱の嵐が朝廷内にも吹き荒れる
  ようになると宣嘉は、学習院にて急進派
  公卿と盛んに攘夷論を展開している。

□1858年(安政5年)に起きた開港問題では
  、宣嘉は強硬に反対し、一度は条約勅
  許に傾いた朝議をひっくり返す荒業を成
  している。

□1863年(文久3年)、朝廷組織の改革に取
  り組み、過激派尊攘の公卿となって、大
  和行幸や天皇親政を成そうと目指した。

  しかし、8・18の政変に遭遇し、三条や長
  州藩士とともに洛外追放に処され、長州
  へと落ち延びていった。

□その後、過激派尊攘の志士である平野
  国臣が生野の乱を引き起こすと、宣嘉は
  これに同調して、兵乱に加わった。

  しかし、幕府の鎮圧戦に敗れ、四国へと
  逃亡し、再び長州へと戻っている。

□維新後、罪を赦され、新政府の参与とな
  り、九州鎮撫総督兼外国事務総督と
  なる。

□以後は、外国官知事、外務卿、盛岡県知
  事と歴任している。

Wikipedia「澤宣嘉」から引用
一時は朝廷内より失脚したが、
再度、政局へと返り咲き、
新政府で重要な役職を担った。

参考:Wikipedia「澤宣嘉」