しょうないはん
出羽国
別称:鶴岡藩
改称:大泉藩
藩主:酒井 忠宝 さかい ただみち
譜代 12万石
山形県鶴岡市一帯
神田橋
佐幕
■藩の歴史
江戸時代初期、山形県の大部分を領有していたのは最上家であったが、改易後は、山形一帯の領内分割統治が行われた。
元和8年(1622年)、庄内の地には、信濃国松代10万石の酒井忠勝が入封し、庄内藩13万8千石が起こる。以降、庄内藩は酒井家が12代に渡ってが領有した。
酒井忠勝は、徳川四天王の一人、酒井忠次の孫で、譜代の名門であった。
天保11年(1840年)、8代目・忠器(ただかた)の時代に、突如、越後長岡7万4千石への転封が命じられる。原因は、忠器の失態ではなかった。
転封の命が出た要因は、武蔵国川越藩8万石の領主・松平斉典(まつだいらなりつね)が財政建て直しを図るため、豊かな領内を持つ庄内への転封を幕府に働きかけたことにあった。斉典は、11代将軍徳川家斉の実子を容姿に取っていたため、幕府へのゴリ押しが通ったのであった。
幕府は斉典の意向を叶えるため、川越・松平家→庄内、庄内・酒井家→長岡、長岡・牧野家→川越へ転封させる案を立てたのであった。
三方領知替えを計画したものの、この突然の領地替えに待ったをかけたのは、他でもない庄内藩の家臣・商人・農民たちであった。天保義民事件と呼ばれる幕府へ直訴までして、領地替えの取りやめを運動した。
結果、家斉の死去などで計画は沙汰止みとなり、庄内藩は酒井家が収めることに結審した。藩主擁護のため、領民が公儀へ訴えるという前代未聞の事件であった。
■幕末の動向