清河 八郎
1830-1863
享年34歳。

名称:変名は、大谷雄蔵、日下部達三

□文武両道の有志として、尊王運動に奔走する。
  青年期に江戸遊学を望むが反対され、そのまま
  出奔し、東条一堂、安積艮斎(あさかごんさい)
  に師事した。
  その後、昌平黌(しょうへいこう)にも入門し、
  さらには北進一刀流の千葉周作が運営する
  玄武館(げんぶかん)に入る。
  わずか一年で目録を得て、北進一刀流の使い
  手となる。その後、修学した清河は、自ら神田
  お玉が池に私塾を開き、学問と武術を教えた。

  文武指南所を運営した清河だったが、その後、
  尊攘運動に目覚めて行く。
  伊牟田尚平(いむたしょうへい)や山岡鉄舟ら
  と「虎尾の会」を結成し、尊王攘夷運動に傾倒。
  天誅行為で混乱を極めている京都の取り締まり
  強化を建言し、浪士組を組織した。

  しかし、尊攘運動を意図して組織したため、後に
  江戸へ呼び戻されてしまう。
  この時、京都に昇り、そのまま清河と別れた
  近藤勇や芹沢鴨によって、新選組が組織され
  た。

  江戸に戻った清河は、幕吏らに命を狙われる
  ようになり、盟友の高橋泥舟や山岡鉄舟など
  から庇護を受けて、ますます尊攘運動に奔走
  する。

  だが、佐々木只三郎ら剣豪に命をつけ狙われ
  るようになり、一人で夜道を歩いているところ
  を襲撃され、絶命した。