佐久間 象山
さくま しょうざん
1811-1864
享年54歳。
名称:啓之助、修理、国忠、啓(ひらき)、子迪、子明
身分:松代藩士。
□1811年、松代城下にて佐久間一学の長男として
生まれる。
□23歳で江戸に出て、遊学を成し、渡辺崋山、藤田
東湖らと親交を深めた。
修学を成すと29歳で神田お玉が池に私塾・象山
書院を開き、多くの門弟を集めた。
後には”天下の師”と自分を豪語し、勝海舟、吉田
松陰、橋本左内、河井継之助など名だたる英才を
指導した。
□1842年(天保13年)、松代藩主・真田幸貫が海防
掛老中という重職に就くと、象山は海外事情研究
を命ぜられる。その報告書「海防八策」を藩主に
提出した。
欧米研究に力を入れた象山は、西洋兵学を江川
太郎左衛門に学び、蘭学を黒川良安(りょうあん)
に学んだ。
その成果として、大砲製造、地震予知機、電池の
製作、電信実験などを成功させた。
□西洋諸技術の研究に成功していた象山であったが
、弟子の吉田松陰が米国艦隊に密航しようとし、
それに加担した象山は郷里・松代にて九年間の
蟄居生活を送る。
□その後、1864年(元治元年)に罪を許された象山は
、一橋慶喜などに請われて、上洛を果たす。
有識者として諸藩の指導に当たるはずであったが、
公武合体、開国遷都を主張したことから尊攘の志士
たちに命を狙われる。
ついには一抜必殺の秘剣・彦斎流を編み出した、
熊本藩士の河上彦斎によって命を奪われた。