長州藩

ちょうしゅうはん

長州藩の藩祖は、毛利輝元である。毛利輝元は天下分け目
の決戦である関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務め、東軍の
総大将を務めた徳川家康と敵対した。
 しかし、戦う事無く戦局は東軍へ完全に傾き、戦後は領国
安堵を許されるも八カ国もの領有国は二ヶ国にまで減らされ
、不満の残る結果を受けた。

 幕末期には、藩の財政は窮乏し、農民による一大反乱が
起き、長州藩は存亡の危機を味わう。その後は、民衆対策
を常に念頭に置きながら藩政改革を進めざるを得なくなった。
 この貧窮する長州藩を救ったのが村田清風であった。清風
は、長州藩士全員に藩政改革の妙案を提出させ、提出しない
ものは役職を免ずるという強請を布き、藩政改革の意識を
藩内全体に広げた。
 また、民衆たちの協力も頼りとし、長州藩全体で大改革を
成して財政難の窮地を脱することを目指した。清風没後、
清風の改革を引き継いだ周布政之助は、政敵である坪井
九右衛門、椋梨藤太と熾烈な戦いを繰り広げながら、藩政
改革を断行した。

 海に面する長州藩は度々、欧米列強の船が海上を通過
することを快く思わず、早くから海防強化を急ぐべきことを
目指していた。そんな中、開眼の師・吉田松陰が長州藩に
登場する。松陰は過激に欧米列強の文化を見習い、国内の
大改革を推し進めるべきことを心に抱き、海外亡命まで実行
するなど無鉄砲ともいえる行動で窮地に立つ日本の未来を
切り開くことに必死となっていた。

 その後、松下村塾を開き、多くの門下生に英知を教え、新
時代を切り開くことを教えていく。安政の大獄で松陰が散ると
松陰の門下生が大いに時代を動かしていくことと成った。
 高杉晋作・久坂玄瑞・桂小五郎・伊藤博文・山県有朋・井上
馨・吉田稔麿など幾多の志士たちが時代を動かし、日本の
新時代を切り開くことに奔走したことか。

 過激尊攘思想を展開して、京都を動かしたのが久坂玄瑞
・桂小五郎たちであった。公卿の中にもこれに同調して、攘夷
親征を唱えるようになり、尊攘思想が一挙に時代の華となっ
た。大和行幸の予定まで確定した時点で、尊攘思想の絶頂期
を迎えるのだが、その後の急転直下とも言える大激変によっ
て、尊攘思想は終息へと向かうのであった。
 公武合体を目指す公卿・諸藩・幕府が協力し合い、8・18の
政変を引き起こすと過激尊攘派の志士たちは京都を追放され
たのである。もちろん過激尊攘派の中心的存在であった長州
藩も京都を追われる身となったのである。

 七卿落ちを成した尊攘派志士たちは、その後も天誅組の乱
や生野の乱などで巻き返しを図ったが、すべて失敗に終って
いる。業を煮やした長州藩は、京都奪還を武威を持って成す
決意を固め、久坂・来島たちは藩軍を率いて上洛し、幕府軍
とにらみ合う。
 この禁門の変にて、長州藩の過激尊攘の夢は、大きく挫折
することとなる。朝敵の汚名まで受け、久坂ら優秀な人材を
京都にて失うという大失態を成して、長州藩は存亡の危機に
直面するようになる。
 欧米列強による下関戦争にて、再度の駄目押しをされた
長州藩は、完全に孤立無援となり、藩論は尊攘から急きょ
佐幕恭順へと転化した。
 第一次征長にて、完全に屈服させられた長州藩であった
が、その後、高杉晋作と奇兵隊ら民兵組織部隊の活躍に
よって、不死鳥の如く、尊攘思想はよみがえるのであった。
 高杉による藩内革命により、改革派が再び藩政を牛耳る
と尊攘思想から開明尊皇の思想に転化させて、富国強兵策
を展開した。
 欧米列強の強さに見習い、統一国家を目指し、近代国家
創設を目指すことを長州藩は成したのである。そして、その
思想によって、天皇制の政府機関が構想され、幕府は余分
な機関として排除の対象と成り、ついに倒幕思想が生まれる
のであった。

 高杉たちが目指す統一国家による近代国家創設の案件は
、京都で政局を握っていた公武合体による合議制が失敗に
終ったことも手伝って、大いにもてはやされるようになり、つい
に切羽詰った幕府は、第二次征長を成して、自ら失策を犯し
て、幕府の権威を失墜させるに至る。

 四境戦争に勝利し、幕府の自滅を見届けた長州藩は、いよ
いよ中央政局へと踊り出て、倒幕思想を実行に移す段階を
得た。かつての雪辱を晴らすべく、政局で発言力を強めた
長州藩は、倒幕思想を展開し、岩倉・三条ら公卿を味方にして
、討幕の勅許を得るのであった。
 だが、討幕の勅許と同時に幕府が大政奉還を成して、幕府
はなくなってしまうと長州藩は、大いにはぐらかされてしまい、
討幕の機会を一時、見失ってしまう。しかし、それも薩摩の
西郷隆盛の機転により、江戸にて旧幕府側を怒らせ、戦争の
火種を誘発させることに成功すると一挙に鳥羽・伏見の戦い
へともつれ込み、ついに長州藩は念願の討幕の機会を得るに
至った。

 戊辰戦争では、奇兵隊ら長州藩で生まれた民兵組織の各
部隊が大活躍し、近代日本が目指す軍隊の模型を成したの
であった。その後は、薩長藩閥が新政府を牛耳り、日本の近
代化へ邁進するのであった。