土佐藩

とさはん

1600年(慶長5年)、土佐に入部した山内一豊(やまのうち
かずとよ)によって、土佐藩は始まる。幕末期に起きた
天保の大飢饉によって、甚大な被害をこうむった土佐藩
では、天保の改革を断行して、藩の財政窮乏の危機を脱し
ようと図った。
 学問好きの13代藩主・山内豊煕(やまのうちとよてる)は、
勘定方役人の馬淵嘉平(まぶちかへい)を登用し、藩政改革
を断行させた。
 嘉平は大坂の商業資本と手を切り、藩の財政を健全なも
のに改めて、藩政改革を行った。「おこぜ組」と呼ばれた嘉平
たち新進気鋭の改革派藩士たちは徐々に成果を上げていっ
たものの、政敵の旧守派の重臣たちの反発を買い、失脚の
憂き目を見ている。

 こうして土佐藩では、門閥派と改革派との対立が激化し、
公武合体派の上士と勤王派の下士とに藩士層が分かれて
抗争劇を繰り広げるのであった。

 有能さを買われた山内豊信(やまのうちとよしげ※容堂)は
、分家の南屋敷から迎えられて、15代藩主に就いた。
豊信の有能振りを聞いていた薩摩の島津斉彬や宇和島の
伊達宗城たち開明派知識人は、大いに期待を集めている。

 しかし、藩主に就いた頃は、まだ藩政の主導権は12代藩主
・豊資(とよすけ)が握り、旧守派が藩政を取り仕切っていた
ため、すぐには藩政改革をはじめられなかった。

 その後、豊信は優秀な人材を登用して、藩政改革を成す
ようになる。吉田東洋や小南五郎右衛門らを起用して、藩政
改革を成している。
 人事の刷新も図り、「新おこぜ組」と呼ばれる改革派の人材
を集めている。麻田楠馬(あさだくすま)・後藤象二郎・福岡
孝悌・野中太内(のなかたない)・岩崎弥太郎・乾退助・谷
干城などが藩政改革に当たった。

 藩政改革が徐々に成功を収める中、豊信は江戸にて将軍
継嗣問題に携わり、一橋慶喜を擁立して、井伊大老と戦った
が、安政の大獄にあい、隠居・謹慎の身となる。その後、
桜田門外の変にて井伊直弼が倒れると豊信は罪を許されて
、政局の表舞台へと返り咲いてる。

 1861年(文久元年)に土佐藩では、大きな節目となる組織
が誕生する。水戸藩の尊攘思想に影響を受けた藩士たちが
勤王思想を貫徹するために一団を作った。
 この一団は土佐勤王党と呼ばれ、盟主には武市瑞山が
なった。彼らは過激な行動を成して、藩政に大きな発言力
を持つようになっていった。
 この土佐勤王党の出現によって、土佐藩の藩政には、
改革派と旧守派と勤王派という三つの勢力が入り乱れて
覇権を争うようになったのである。
 そして、遂に土佐勤王党は暴走し、改革派の筆頭・吉田
東洋を斬殺してしまう。これにより、藩政は改革派主導から
旧守派主導へと転化し、同時に土佐勤王党も発言権を増し
て、藩政に口を出すようになった。

 土佐藩に勢力基盤を築いた土佐勤王党は、京都へと向か
い、尊攘運動に参加することとなった。こうして、それまで
尊攘運動が盛んだった薩長に次ぐ第三の藩として土佐藩
の存在が認知されたのである。

 尊攘思想が一大旋風を京都で巻き起こしていた頃、土佐藩
では、「新おこぜ組」と呼ばれていた改革派が政局を追われ
、旧守派が藩政を牛耳り、佐幕の姿勢を取っていた。
 その後、8・18の政変が起こると尊攘思想の天下の時代が
終わりを告げて、土佐勤王党も藩主・山内容堂(豊信)の指
示により、激しい弾圧を受け、壊滅するのであった。
 こうして、容堂は公武合体の思想を土佐藩内に展開し、
尊攘思想を藩内から一掃したのである。

 その後、念願の公武合体による合議制の政権が開始され
たものの大名同士の折り合いが悪く、まったくの不調のうち
に合議制は崩壊を来たした。公武合体が倒れると容堂は、
仕方なく薩長両藩に接近し、西国雄藩としての生き残る道を
探るようになった。

 後藤象二郎、坂本龍馬、中岡慎太郎らの活躍により、土佐
藩は薩長に次ぐ第三の藩としての位置を確立したものの、
容堂が佐幕の姿勢を取っていたため、薩長両藩に時代の
先導者として遅れを取っている。
 坂本龍馬と中岡慎太郎の必死の奔走により、薩長同盟が
締結されると、一挙に政局は倒幕思想へと向かう。土佐藩
では、佐幕の思想を捨て切れず、結局は大政奉還という妙
案を持って、幕府を手助けする方式を取っている。

 その後、戊辰戦争では、板垣退助が指揮を取り、北越・会
津戦争にて活躍を見せ、明治維新後は、薩長土肥の藩閥
を形成している。