相楽 総三 1840-1868
さがら そうぞう
享年29歳。
名称:本名は小島四郎左衛門将満。信臣、
武振、変名は村上四郎、相楽総三。
江戸出身。
□平田流国学を学び、各地で尊攘派志士たちと
交遊する。
□西郷隆盛の方針に従い、約500人の部下を率い
て江戸市中、関東などを騒がせた。
総三は、「御用盗(ごようとう)」と称し、無法者たち
を組織し、江戸市中を荒らし回った。
彼らは、夜になると本拠の薩摩藩の三田屋敷から
出ると盗賊行為を繰り返した。総三に指示を
出していたのは、薩摩藩士・益満休之助であった。
総三は、青年期に江戸で国学、兵学を修め、弱冠
20歳にして、門弟100人を数えたという。
その後、尊攘派志士たちと交友するようになり、
京都へ上洛した折には、西郷隆盛の知己を得る
など広い人脈を持った。
□西郷隆盛から信頼を得た総三は、隆盛から幕府
挑発のため、夜盗を率いて、江戸で暴れる指示
を受けた。
大政奉還をして自重している幕府を挑発し、
幕府側に先制攻撃させ、討幕の勅命を得る
ように仕向けようとする隆盛の謀略であった。
□1867年12月、総三は江戸城二の丸に火を放ち、
幕府を挑発した。
これに激怒した幕府は、総三が拠る薩摩藩邸へ
と襲撃し、総三たちを追討した。
総三たちは、益満の用意した船にのり、江戸を
脱出した。
こうして、討幕の勅命がおり、戊辰戦争が勃発
したのであった。
□戊辰戦争に際して、総三は赤報隊を組織し、
信濃に入った。
総三は、「念願の世直し聖戦」と大言し、
行く先々の民衆に新政府の方針として打ち
出された「年貢半減令」を言いふらしていった。
その後、新政府は、「年貢半減令」を財政難から
撤回することとなり、総三は”偽官軍”の汚名を
着せられることとなった。
□新政府との意見対立が生じた総三は、東山道
総督府に呼び出され、そこに赴いた総三たちは、
”偽官軍”の大罪者として、捕らえられ、下諏訪
にて、部下とともに処刑された。