中山 忠光

なかやま ただみつ

1845-1864 享年20歳。

□大納言・中山忠能の第七子として誕生。
  急進的な尊攘派公卿であった。
  若くして”暴れ者”の異名を取り、土佐
  勤王党の盟主・武市瑞山も彼の無鉄砲
  振りには、困惑したという。

□忠光の姉・慶子が明治天皇の生母であ
  ったため、14歳の若さで孝明天皇の侍
  従となっている。
  1863年(文久3年)3月、長州藩が下関に
  て攘夷決行を成すと聞きつけるや、密か
  に京都を脱して、長州萩へと下った。
  官位を返上して、下関海峡での外国艦
  船砲撃に参加している。

□1863年(文久3年)5月10日を攘夷決行期
  日としていた幕府であったが、その日が
  過ぎても率先して攘夷を成さないことに
  腹を立てた忠光は、密かに尊攘運動と
  討幕を成そうという天誅組首謀者と連絡
  を取る。

  土佐の吉村寅太郎、備中の藤本鉄石、
  三河の松本奎堂ら三名が首謀者となり、
  天誅組が結成されると、吉村たちは忠光
  を総大将にすえ、尊攘運動と討幕を同
  時になそうと計画する。

  しかし、いざ挙兵してみると、これに呼応
  するものもなく、同時に8・18の政変にて
  、朝廷内から尊攘派が締め出され、公武
  合体派の世の中となってしまう。
  幕府の勢いが盛り返し、幕府・諸藩の連
  合による天誅組討伐戦が展開され、天
  誅組はなんら利を得られずに壊滅した。

□忠光は、奈良、大坂へと逃げ惑い、つい
  には尊攘派の巣窟となっている長州ま
  で逃避行する。

  しかし、長州藩の支藩・長府藩に滞在し
  ていた時、長府藩士たちが佐幕派の姿
  勢を取り、忠光は海岸にて惨殺され、そ
  の場に埋められるという悲運を見る。

Wikipedia「中山忠光」から引用
尊王攘夷の急先鋒として、朝廷内でも屈指の”暴れ者”として通っていた。
 気勢よく旗揚げを果たすも、時運を得ずに失脚した。

参考:Wikipedia「中山忠光」