真木 和泉
まき いずみ
1813-1864
享年52歳。

□筑後久留米藩の水天宮(すいてんぐう)神職の家に
  生まれる。
  国学を修め、尊皇攘夷を唱える水戸学に影響を
  受け、次第に尊攘思想に目覚めて行く。

□弱冠11歳で家督を継いだ和泉は、国学を中心に
  さまざまな学問に傾倒。
  江戸遊学を果たすと水戸学を学び、会沢正志斎
  (あいざわせいしさい)の影響を受け、安井息軒
  (やすいそつけん)、塩谷宕陰(しおのやとういん)
  、橘守部(たちばなもりべ)らと親交を結ぶ。
  帰郷後は、もっぱら天保学連の中心人物となり、
  藩政改革の意見書を提出。

  著名な尊攘思想家となった和泉は、やがて倒幕
  思想にも触れ、有志を抱くと鹿児島に渡り、大久保
  利通、有馬新七らと親交を図る。
  ついで、島津久光の上京計画にも参加し、一方で
  は大坂で田中河内介らと挙兵を計画した。
  だが、寺田屋事件によって、この計画は挫折し、
  尊攘運動の場を失うと次には長州藩へと赴いた。

  長州にて天皇親征、倒幕論を展開し、学習院御用
  掛に抜擢される。1864年(元治元年)に禁門の変
  を起こし、久坂玄瑞・来島又兵衛らとともに長州藩
  軍の司令官を務めた。
  禁門突破を図り突撃したが、薩摩藩の猛反撃に
  遭遇し、敗退。天王山へ逃れ、その場にて同志
  十六名とともに自刃して果てた。