小松 帯刀

こまつ たてわき

1835-1870 享年36歳。

通称:尚五郎、帯刀。
諱:清廉(きよかど)。
号:観瀾。

官位:贈従四位・玄蕃頭

□薩摩藩喜入の肝付兼善の四男として生まれる。

 生まれたときから病弱であったが、学問向上に熱心で、病に伏せる日が多いながら、学問をよく修めた。

 1855年安政2年、21歳にして、奥小姓・近習番勤めに任じられ、同年5月には江戸詰めを命じられ、栄達を得る。

 1856年安政3年、吉利領主・小松清猷(きよなお)の跡目養子婿入りし、小松帯刀と名乗る。

□1861年(文久元年)に島津久光の
  側近として仕え、藩政改革に着手
  した。
  この時、大久保利通や西郷隆盛
  らを藩政の中枢に据え、藩政改革
  を促進させた。

 同年、北郷作左衛門とともに長崎出張を命じられ、1月17日には、蒸気船「天祐丸」に乗船して、前之浜を出立。海運業なるものを直に感じ学ぶ。

長崎では通訳を雇って、オランダ軍艦に乗船を果たし、軍艦操作、破裂弾・水雷砲術学など西洋文化を熱心に学んだ。

同年6月、鹿児島に戻ると、島津忠義臨席のもと、電気伝導に拠る水雷爆発の実演を行い、西洋兵器の破壊力を薩摩藩内に知らしめた。

この実績により、帯刀は、島津久光の側近に抜擢される。

□1862年(文久2年)、久光が上洛を
  果たすと小松はこれに同行し、京
  都にて公武合体策の周旋、諸大名
  同士の連合に奔走する。

□1867年(慶応3年)、将軍・徳川慶喜
  に大政奉還を進言し、幕藩体制の
  終焉に活躍した。

□維新後、参与、総裁局顧問、外国
  事務局判事などを歴任し、新政府
  組織の幹部一員として活躍の場を
  得たが、惜しくも若くして病没した。

Wikipedia「小松帯刀」から引用
薩摩藩家老として、西郷隆盛や大久保利通などとともに
困難な政局に挑んだ。

参考:Wikipedia「小松帯刀」