きど たかよし
1833-1877 享年45歳。
長州藩士。
通称、桂小五郎。号は松菊、木圭。
□1833年6月26日、長州萩藩の藩医・和田
昌景の長男として誕生。
□1890年、隣家の桂九郎兵衛が死去し、家
禄150石の桂家断絶をなくすため、7歳
孝允が桂家の養子となる。
□1849年、孝允17歳の時、吉田松陰に師事
する。
□1852年、江戸に遊学する。
江戸の斉藤弥九郎に剣術を習い、のち
に塾頭となる。
江川太郎左衛門に洋式兵学・砲術を
学ぶ。
□1858年、孝允26歳で江戸詰となり、江戸
藩邸に出仕。
薩摩、水戸、越前などの諸藩志士と親
交を深める。
□1862年以降、周布政之助、中村九郎らと
他藩交渉の任にあたる。藩政要職に就
き、藩論を尊攘から討幕へと切り替え導
いた。
玄瑞とともに尊王攘夷を精力的に説いて
まわる。
□1863年、8・18政変が起こると京都に潜伏
し、長州藩の名誉挽回を画策するも効果
なく帰藩する。
藩内では武力行使で上京する強硬派の
意見が勢いをましていた。
これに対し、孝允は慎重論を展開し、再
び京都に入る。
池田屋にて同志会合中に新選組に襲撃
されるが、危うく難を逃れる。
なおも京都に潜伏したが長州藩士に対す
る厳しい探索に苦しむ。芸妓・幾松(のち
妻・松子)にかくまわれた話は有名。
□その後、消息を断って但馬出石に潜むが
晋作らの要請により1865年4月、帰藩を
果たす。
帰藩した孝允は長州藩で実質的な最高
責任者の地位に就く。
□1866年1月、土佐藩士・坂本龍馬の周旋で
薩摩藩士・西郷隆盛と二度の会合を持ち
、ついに薩長同盟の盟約を結んだ。
□大久保利通らと王政復古を断行し、維新
の立役者となる。
□五箇条の誓文起草に関与し版籍奉還を唱
えた。
□1871年、岩倉遺外使節の全権副使として
外遊し、見識を広めた。
□1873年、内治優先を唱え、征韓論に
反対。
征韓派四参議を辞職させる。
□1874年、内治優先を唱え、大久保利通が
唱えた台湾出兵に反対し、参議を辞任。
□1875年2月、立憲制の漸次採用で大久保
利通と合意する。同年3月、参議に復帰
する。
同年6月、第一回地方官会議議長を務
めた。
□1876年3月、大久保利通の独裁専横ぶ
りに不満を持ち、参議を辞して内閣顧問
となる。
□1877年5月26日、西南戦争の最中に京
都で病没。
享年45歳。
西郷隆盛、大久保利通とともに明治維新
の三傑として賞賛された。