永倉 新八

ながくら しんぱち

1839-1915 享年77歳。

□通称:本姓は長倉、栄吉(幼名)、栄治、

載之(のりゆき)、杉村義衛(すぎむら よしえ)※明治期に改名。

□松前藩江戸定府取次役(150石)・長倉勘次の次男として、

松前藩上屋敷にて生まれる。

□1846年、岡田利章の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門する。

鍛錬すること4年目にして、恩師を亡くしたため、以後、岡田助右衛門

から剣術を教わる。

1856年安政3年、18歳にして、本目録を達成する。

同年、元服し、新八と称した。

□松前藩士として仕官するのが嫌になり、脱藩し、江戸本所亀沢町の

百合元昇三の道場にて剣術を学ぶ。その後、市川宇八郎(芳賀宜道)と

剣術修行の旅に出る。

その後、江戸に戻り、心形刀流剣術・伊庭秀業の門人・坪内主馬に

見込まれて道場師範代を務め、そこで門下生・島田魁と知り合う。

その後、近藤勇が開いた天然無心流「試衛館」の食客となる。

近藤らと共に浪士隊に参加、その後、新選組が結成されると入隊した。

□新選組結成当初から隊士として活躍し、

二番隊長及び撃剣師範を勤めた。

□近藤勇らの信任も厚く、新選組の中核を
  担った。

□寺田屋事件では、近藤勇、沖田総司とと
  もに寺田屋に乗り込み、壮絶な斬り合い
  を繰り広げた。

□戊辰戦争では、靖兵隊を組織して官軍と
  戦った。

□会津戦争にも参戦し、会津城の攻城戦で
  武勇を振るった。

□その後、再び、松前藩士となる。

□明治期になると杉村義衛と改名し、

樺戸集治監の撃剣師範を務めた。

□新選組隊士としては、数少ない生き残り
  として維新後も生きた。
  大正時代まで生き、新選組の活躍を
  人々に語り伝えた。

Wikipedia「永倉新八」から引用
最晩年の大正二年に札幌で撮影(前方中央が永倉新八)
剣豪として、新撰組にて活躍。池田屋事件への襲撃を敢行し、
後にその詳細を書物に残した。

参考:Wikipedia「永倉新八」