鍋島 閑叟

なべしま かんそう

1815-1871 享年57歳

□通称:貞丸、斉正、直正

□1830年(天保元年)、鍋島閑叟は佐賀
  藩主の座に就く。
  当時のご時世よろしく、佐賀藩も諸藩
  同様に財政難であった。
  閑叟が江戸から帰国しようとした当日に
  なって、借金取りが佐賀藩邸に押し寄
  せてきて、出発を延期しなくてはならなく
  なるなど、佐賀藩の財政も窮乏を極めて
  いた。

□江戸で赤恥をかいたことに懲りたのか、
  閑叟は、自らが精力的に政務を取り仕
  切り、藩政改革を推進した。
  まずは財政再建とばかりに矢継ぎ早に
  税収アップの秘策を施行した。

  綿花栽培、砂糖製造、石炭採掘などの
  近代的な殖産興業政策を展開し、藩財
  政の大幅な黒字に成功する。
  ついで、優秀な人材の登用、藩内の教
  育強化と振興、軍事の洋式化を図った。

  これら藩政改革を通常の諸藩では、優
  秀な藩士たちの手によって、断行されて
  いった
  が、佐賀藩では、これとは異なり、藩主
  自らが陣頭指揮を取り、改革を推進して
  いった。
  それだけ閑叟には改革の才覚が抜きん
  出ていたことを物語る。

□日本がペリーの来航で外国ブームが訪
  れるずっと前から佐賀藩では、欧米列強
  の脅威をよくよく知っていた。
  その要因は、佐賀藩の特殊事情にあ
  った。
  佐賀藩は、福岡藩とともに一年交代で長
  崎警備を担当してきたのだ。
  そのため、海外の動向や欧米列強の強
  引な植民地化政策をマザマザと見る想
  いで報告を受けていた。
  そのため、海防の必要性を日本国内で
  いち早く認識し、軍備の近代化が急務で
  あることを悟っていた。

  閑叟は長崎を通じて、海外情報を大量
  に入手しており、豊富な海外知識をかわ
  れて、橋本左内の幕政改革案のなかで
  、外国事務宰相の要職を耐え得る逸材
  として、名を挙げられたほどだった。
  当時の日本では屈指の国際通として、”
  蘭癖大名(らんぺきだいみょう)”などと
  あだ名されていたほど。
  自身も進んだ西洋技術に高い興味を持
  っており、オランダ船に自ら乗り込み、操
  縦法を詳しく聞いていたというご熱心振
  りであった。

□閑叟は進んだ西洋技術を藩内に取り込
  み、軍備の近代化を図った。
  反射炉を二基造り、大砲を量産すること
  に国内で初めて成功。

  長崎港内外の砲台を整備し、日本の海
  防力強化に大きな貢献をしている。
  ペリーが日本に来航すると、海防力の無
  力を悟った幕府が慌てて、強力な大砲
  の製造技術を佐賀藩に教え請うという一
  場面もあった。
  閑叟は、幕府に大砲技術者を提供し、幕
  府の海防力強化に貢献している。
  佐賀藩の大砲製造技術は、国内随一で
  あったことを物語る話である。

□閑叟の藩政改革は大成功となった。
  藩主自らの采配でここまで藩政を改善で
  きたのは佐賀藩くらいであった。
  それだけに閑叟の名君振りは全国津々
  浦々にまで知れ渡っていた。

  ここまで名君振りを発揮したのであれば
  、さぞかし、中央政権への発言力が強か
  っただろうに、閑叟自身は、まったくその
  野心を持たなかった。
  純粋に藩政の強化を目指すだけに留ま
  った閑叟は、幕政や朝廷への政治工作
  などにまったく興味を示さなかった。

  藩士たちには、高度な技術を学ばせる
  一方で、その技術が他藩に流出すること
  を防ぐため、他藩との交流を藩士たちに
  一切禁じるという処置を取っている。

  言わば、”二重鎖国”の方針を藩内に課
  したのである。
  閑叟は、むやみに国政の抗争に触れれ
  ば、甚大な被害をこうむると考えて、時
  期が熟すまで、一切の行動を慎むことを
  佐賀藩全体に課したのであった。

□1862年(文久2年)、尊王攘夷派と公武合
  体派の確執が深刻化するなかで、日本
  最大の近代軍備力を持つ佐賀藩の動向
  に日本中が注目するようになった。

  幕府からも、朝廷からも、西南雄藩から
  も、佐賀藩の協力要請が相次いだ。

  閑叟も時期は熟したと悟り、隠居の身軽
  さも手伝って、これら諸所の要請に応じ
  て、上洛を果たし、朝廷と幕府の調整役
  に踊り出た。

  海外事情に精通する閑叟である。
  無謀な攘夷論を非難し、公武合体を支
  持して、海防の危機を乗り切ることを第
  一として、軍事優先の立場を取った。

  富国強兵策を展開すべきと主張した閑
  叟は、国力充実と近代軍備の充実を最
  優先で執り行うことを諸藩に唱えた。

□この閑叟の国政関与に発奮した佐賀藩
  士たちの中から、血気にはやる藩士が
  多数出た。
  その中の一人に江藤新平がいる。
  江藤は、ようやく佐賀藩の時代到来とば
  かりに佐賀藩を脱藩して、京都へと向か
  った。
  上洛を果たした江藤は、同じく上洛して
  いた長州藩の桂小五郎とともに活動した
  が、まずはバックアップが大事として、佐
  賀藩の藩論を変えるべく、いったん佐賀
  へと戻った。

  しかし、江藤を待っていたのは、脱藩と
  二重鎖国の禁令を破ったことによる罪状
  で江藤は、永蟄居(えいちっきょ)を命ぜ
  られてしまう。

  たとえ、諸藩と連携して国難打開を模索
  する運動をしたとしても、軽率な行動で
  藩内を混乱させる要因を作ることは断じ
  て許されぬという厳しい姿勢で閑叟は臨
  んだ。
  新平のようなすぐれた逸材を失わせない
  ためには、他藩と行動を共にすることを
  許さない断固とした方針を閑叟は貫いた
  のだ。

□閑叟自身は、他藩の藩主との折衝が上
  手く行かず、早々に佐賀へと引き上げて
  しまった。
  他藩との協調が取れず、抗争に至る前
  に引き上げるなど見切りつけの英断力
  は維新屈指のものを誇るといえるだ
  ろう。

□その後も鳴りを潜める佐賀藩の去就には
  、注目を集めたが、目立った動きもない
  まま維新を迎えることと成る。
  閑叟自身も胃腸カタルの病状が悪化し
  て、積極的な活動が取れなくなったとい
  う健康上の理由もあった。

□1865年(慶応3年)12月に”王政復古の大
  号令”が発せられると、さすがに佐賀藩
  も、慌てて国政参加の動きを見せた。

  京都でわずかながら政治活動を取って、
  他藩に名前を知られていた江藤新平を
  登用して、京都へ送り、佐賀藩の国政参
  加の入り込める余地を作らせた。

□期待された佐賀藩の近代軍事力を鳥羽・
  伏見の戦いで用いることができなかった
  ものの、上野の彰義隊攻撃の際には、
  佐賀藩所有の最新鋭・アームストロング
  砲が大いに活用され、彰義隊をたった一
  日で壊滅させるなど、旧幕府軍との掃討
  戦に大いに貢献した。

  戊辰戦争での佐賀藩の近代兵器は大い
  に活躍し、新政府軍の勝利をもたらす勝
  因を作り出した。

□こうして、どうにか幕末・維新の時代に活
  躍の場を見出した佐賀藩は、薩摩藩、長
  州藩、土佐藩に次ぐ、第四番目の地位
  を得ることができたのである。

  しかし、閑叟の評価は名君振りとは裏腹
  に”日和見主義(ひよりみしゅぎ)”だとか
  、”二股膏薬(ふたまたこうやく)”などと、
  悪評が多くなってしまった。

  彼の行った藩政改革は抜群の効果を発
  揮して、西南雄藩の一角を担ったことは
  確かだったが、独裁政治と二重鎖国政
  策が、足を引っ張って、佐賀藩士たちの
  活躍の場を少なくしてしまったという低い
  評価が多い。

  しかし、彼の独裁政治は、藩内の派閥抗
  争を防ぎ、二重鎖国政策によって、藩士
  たちの無謀な挙行を未然に防ぐ効力を
  持ったことは確かである。

  その証拠に、無駄足を踏まずに幕末動
  乱を乗り切った佐賀藩は、明治維新とい
  う新しい時代の幕開けに対して、優秀な
  人材をほとんど損なわずに投入できた
  のである。

  その意味で、無駄な抗争を避けるという
  方針を頑固一徹に貫いた閑叟の功績は
  高い評価を得るに値するものであった。
  明治新政府に必要な有能無比な人材を
  数多く送り込めたことは、日本国の発展
  を行う上で大いに役立ったのである。

Wikipedia「鍋島直正」から引用
藩政改革を推し進め、佐賀藩を西国雄藩にまで押し上げた。
佐賀藩の近代兵器は、戊辰戦争の際に朝廷が頼みとしたほどだった。
Wikipedia「鍋島直正」から引用

参考:Wikipedia「鍋島直正」