井上 馨

いのうえ かおる

1835-1915 享年81歳。

長州藩士。
名は、勇吉、友次郎、聞多。

□1835年、萩藩士・井上光亨(みつ
  あき)の次男として誕生。

□1852年、井上は17歳で明倫館に
  入り、勉学に励む。

□1855年、井上21歳の時、志道慎平
  の養子となり、志道聞多と称す。
  のち井上家に復帰。
  同年、江戸へ上り、肥前の岩屋玄
  蔵に蘭学を学ぶ。
  また、江戸塾で砲術を学ぶ。

□1860年、井上25歳の時、藩主・定
  広の小役となり、聞多の名を
  賜る。
  以後、定広の側近として仕える。

□1862年、井上は伊藤博文らと計り
  、英国公使館焼き討ちを実行
  する。

□1863年、藩命より洋行を命じられ、
  井上の機転で5000両の旅費と滞
  在費を藩より得て、伊藤博文らと
  ともに横浜より密航。渡英に成功
  する。

□1864年、下関戦争の報を聞いて、
  急きょ帰国。
  下関戦争での講和会議に通訳と
  して出席。
  講和成立に尽力する。
  同年9月、井上は君前会議で俗論
  党を論破。
  帰宅中に俗論党に襲われ、重傷
  を負う。

□1865年1月、井上は高杉晋作に従
  い、鴻城隊を率いて幕府軍と
  戦う。

□1871年、大蔵大輔となり、地租改
  正、秩禄処分を推進する。
  政府財政を批判し、辞職。

□大阪会議を機に政府に復帰。

□1885年、第一次伊藤内閣の外相と
  なり、条約改正のために極端な欧
  米化政策を推し進め、世論の非
  難を買った。

□農商務相、内相、蔵相などを歴
  任す。

□財界と深くかかわり、三井財閥の
  最高顧問となり、『三井の番頭』と
  呼ばれた。

□1898年以後、元老となる。

Wikipedia「井上馨」から引用
青年期に伊藤博文とともに渡欧を果たし、先進文化を学んだ。
 維新後は、明治政府を代表する政治家として活躍した。
Wikipedia「井上馨」から引用
長州五傑。上段左から遠藤謹助、野村弥吉(井上勝)、
伊藤、下段左から志道聞多(井上馨)、山尾庸三
Wikipedia「井上馨」から引用
1880年(明治13年)ころの井上馨
Wikipedia「井上馨」から引用
長州藩士時代の井上馨(明治2年 内田九一撮影)

参考:Wikipedia「井上馨」