岩倉 具視

いわくら ともみ

1825-1883 享年58歳。

公卿。
□妹・堀河紀子(ほりかわもとこ)が孝明
  天皇に仕え、寵愛を受けていたので
  、朝廷での発言力を持った。

□1854年、孝明天皇の侍従となる。

□1858年、日米修好通商条約の勅許を
  求めて、入京した老中の堀田正睦を
  失敗させた。

□公武合体を唱え、和宮降嫁に尽力する。

□尊攘派に弾劾され洛北の岩倉村に
  こもる。

□倒幕派と接近し、王政復古のクーデ
  ターを行い、新政府の中枢に就く。

□岩倉遺外使節で外国を視察し、見識
  を広げる。

□帰国後、征韓論に揺れる政府を一喝。
  治世優先を唱えた。

□民権運動に対しては、井上毅に天皇
  制擁護のため欽定憲法の原則を起
  草させた。

□宮廷改革にも意を配り、皇室財産確
  立を意図するなど近代天皇制の確立
  を目指した。

Wikipedia「岩倉具視」から引用
小御所会議では、公武合体派の山内容堂と激論を
交わし、ついには”山内おろし”をやってのけた。

 非情の権謀家、陰険者との悪評が絶えなかった具視は、”やもり”と呼ばれた。

 西欧諸国では”ヤモリ”は宮殿に住む賢い動物とされており、
具視もまさにつくづく喰えない賢き奴であった。

 一方で具視は、明快な論理を展開し、周囲を納得させる弁舌の達人でもあり、
”やもり”との悪評を受けつつ、”日本官僚の父”という高い評価も得ている。

参考:Wikipedia「岩倉具視」