あべ まさひろ
1819-1857 享年39歳。
□通称:四郎五郎、主計頭、正一、叔道、叔卿、剛蔵、祐軒、学聚軒、伊勢守。
□官位:従五位下・伊勢守、従四位下、侍従、従三位
□備後(今の広島県)福山藩主。
□1843年、正弘24歳にして老中となり、
水野忠邦失脚後の幕藩体制の立て
直しにあたる。
□1853年、ペリー来航に際し、正弘は
それまで幕府内だけで外交処理を
行ってきた前例を破り、九州の雄藩
や側近の旗本たちから世情に対応
する意見や対策を求めた。
幕藩体制では、かつて実施したこと
のない革新的な政治に取り組んだ。
□1853年(嘉永6年)9月、正弘はかねて
から諸藩が幕府に要請していた大型
船建造の解禁を認め、国内の船舶建
造の推進の口火を切った。
諸大名への船舶建造を推進させるこ
とで、海運力と海防力を同時につけよ
うと図ったのである。
同年10月には、幕府の名義でオランダ
に蒸気船の購入を依頼している。
さらに品川沖砲台場、伊豆韮山(いず
にらやま)に反射炉、江戸湯島に鋳砲
場(ちゅうほうば)を建設するなど、幕
府の近代軍備増強を図った。
大船建造の解禁や洋学所の開設、海軍
創設など過激な西洋化推進に幕府内
から保守的な従来の慎重路線の声も
聞こえたが正弘は大奥の強い支持支
援を受けて、なんとか改革の断行を
継続させた。
□1854年(安政元年)、日米和親条約を
締結。
□1855年(安政2年)10月、オランダの援
助によって、幕府は長崎に海軍伝習
所を開いた。
この伝習所では、日本人の軍艦乗組員
を養成して、次世代の海運事情に素早く
対応できるようにする先手必勝の秘策
であった。
この幕府公式の伝習所で、40名余りの
幕臣が最新の航海術を学んでいる。
しかし、注目すべき点は、幕臣だけでは
なく、西南雄藩からも藩士が参加して
いたことにある。
海事の国難に素早く対処する人材を
育成する機会を幕臣だけに与えず、
諸藩の有志たちにも分け与える寛大
さが正弘の有能さといえる。
この伝習所からは、幕臣の勝麟太郎、
榎本武揚、薩摩藩士の五代友厚、肥
前藩士の佐野常民など、次世代の有
志たちがたくさん育った。
ひとえに正弘の寛大さと先見性が生
んだ賜物である。
□軍備増強が必要と考えた正弘は、
砲術を教える講武所(こうぶじょ)を
設置し、そこで幕臣に西洋兵術を教
え、強力な幕府軍を作り上げようと
した。
また、江戸を西欧列強から守るべく、
幕府海軍局の中枢がある品川港に
”品川砲台”を築くなど周到な防備策
も布いた。
□正弘は、革新的な幕臣がこれからの
日本や幕藩体制を支える者たちと確
信し、自分の後継者を養うべく、家柄
や身分にこだわらない逸材の抜擢を
進めた。
正弘が発掘した異彩を放つ逸材は、
勝海舟、江川太郎左衛門(えがわたろう
ざえもん)、川路聖謨(かわじとしあきら)
、永井尚志(ながいなおむね)などであ
り、その後の幕末に活躍した志士たち
であった。
これら革新派の志士たちを要職に
抜擢することで、保守派の性格が強
い幕臣たちを牽制した。
□1857年(安政4年)6月、鎖国政策を止
め、外国に眼を向け、幕政改革に乗り
出した活眼の士・阿部正弘は改革半ば
にして、病没す。
享年39歳。