藤田 東湖

ふじた とうこ

1806-1855 享年50歳。

水戸藩士。
通称:虎之助、誠之進
諱:彪
字:斌卿、文武卿
号:東湖
藤田幽谷の次男。

□幼少の頃から、父・幽谷の教育を受け、
  湊の堀川潜蔵に学び、青年期には、
  江戸へと遊学し、太田錦城(きんじょう)
  、亀田鵬斎(ほうさい)らに師事した。

□1827年(文政10年)、父の後を継ぎ、
  彰考館編修となる。
  1829年(文政12年)には、水戸藩主
  継嗣問題で、徳川斉昭を擁立して、
  運動に尽力した。

□斉昭が水戸藩主となると、東湖は、これ
  を補佐し、藩政改革に乗り出し、藩校・
  弘道館設立を推進。

□すぐれた先見の明を持ち、幕府の内政
  、外交にも深く携わり、東湖は、戸田
  忠敞(ただあきら)、武田耕雲斎と
  ともに「水戸の三田」と高評されている。

  藩校・弘道館の教育理念となる「弘道
  館記」を起草し、学問の流布に尽力
  している。
  水戸学を実践する偉人として、尊攘派
  の志士たちから信望を集めた。

□1844年(天保10年)5月、徳川斉昭が
  幕府の命令により、隠居謹慎処分と
  なると、東湖もまた、戸田忠敞らと
  ともに蟄居謹慎処分となり、小石川
  藩邸内に幽閉された。

  この期間に東湖は、「常陸帯(ひたち
  おび)」などを執筆し、思想運動を
  ゆるめることはなかった。

□1845年(弘化2年)、東湖は小梅別邸に
  移され、幽閉生活を送ったが、読書や
  執筆に専念している。
  「正気の歌」「弘道館述義」を起草して、
  志士たちに尊攘精神を説いている。

□同年3月に東湖は、幕府より謹慎処分を
  解かれるが、水戸藩より再び謹慎を
  命じられている。
  1852年(嘉永5年)にようやく東湖は、
  謹慎処分を解かれると、ペリー来航など
  の外威から日本国土を守るために、
  海防の必要性を唱えた。

  1853年には、徳川斉昭が幕政参与する
  と、東湖はそれにともなって、海防御用
  掛に任じられ、幕府へと出仕した。

□1855年(安政2年)10月2日、江戸で起き
  た安政の大地震で、逃げ遅れた小石川
  官舎の老母を助け出そうとして、圧死
  した。

□著書に<正気歌><弘道館記><弘
  道館記述義><回天詩史>
  <常陸帯>など数多くある。

Wikipedia「藤田東湖」から引用
水戸学の実践派として、多くの志士たちから信望を集めた。
不運にも大地震にて、横死した。

参考:Wikipedia「藤田東湖」