小栗 忠順

おぐり ただまさ

1827-1868 享年42歳。

□通称:又一、豊後守、上野介。

□勘定奉行を務め、幕府財政の改善を
  目指す。

□外国奉行に就任する。

□1860年、日米修好通商条約批准の
  ため目付けとして渡米する。

□親仏派の指導者として、紙幣発行、
  洋式軍隊の編制と訓練、製鉄所建
  設など施政を行った。

□王政復古後、主戦論を唱えたが受け
  入れられず、領地の上野へ戻る。
  薩長軍の関東進軍にあたって、捕縛
  され斬首された。

Wikipedia「小栗忠順」から引用
横須賀造船所建設を推し進め近代日本の礎を築いた。
当初、忠順の目的は、横須賀造船所で造船することを
目的にはせず、軍艦の修理が主目的であった。
忠順はナポレオンⅠ世の熱心な信奉者であり、忠順
自身もナポレオンを真似して、決して”不可能”という
言葉を口にしなかったという。

参考:Wikipedia「小栗忠順」