坂本 龍馬

さかもと りょうま

1835-1837 享年33歳。

土佐藩の郷士。
変名は、才谷梅太郎。才谷の姓は、坂本家
本家の商家・才谷屋という屋号から取った
という。
才谷屋は”浅井金持ち、川崎地持ち、上の
才谷道具持ち”と地元で歌われたほどの豪
商であった。
才谷家は1770年、郷士の株を手に入れて、
龍馬の父の代に分家坂本家が成った。
龍馬の父は酒造業才谷屋の長男であった
が、祖父の望みもあって、分家して郷士と
なった。

□龍馬が生まれた坂本家は、身分は郷士
  (ごうし)と低かったものの、土佐藩屈指
  の豪商で通っていた。
  それゆえ、龍馬は生まれながら、経済的
  にはかなり恵まれていた。

□子供の頃は、泣き虫で夜尿症(よばれた
  れ)であった。
  10歳になってもひとりで袴(はかま)もは
  けないほど不器用で、塾に行っても、学
  問はまるでダメであった。
  学問不振で体も小さかったため、典型的
  な落ちこぼれであった。

□その劣等感を救ったのが、14歳ではじめ
  た剣術だった。メキメキと剣の腕を上げ
  た、龍馬は、1583年(嘉永6年)、19歳で
  剣術修業のため、江戸に出た。

□家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て、
  千葉周作の実弟に剣術を学ぶ。
  龍馬は大柄な体をして、ヨレヨレの衣服
  をだらしなく着込み、ゆっくりとものを言
  い、ほらふきとして有名であった。
  あまり行儀がよくなく、訪問した家で、
  勧められる前に皮もむかずに柿をほお
  ばったという。

□江戸に出て、すぐペリー来航の騒動が
  起こり、龍馬は異国の風にはじめて触れ
  ることとなった。
  千葉道場で剣術修業に励んだ龍馬は、
  免許皆伝を取得して、鼻高々に故郷へと
  錦を飾った。

□土佐に戻った龍馬は、藩の絵師・河田小
  龍(かわだしょうりょう)と出会う。
  河田は、長崎仕込みの海外の知識を龍
  馬に教え、海防の急務と海運業が時代
  の花となることを説いた。
  この貴重な出会いによって、龍馬は海に
  日本の未来を切り開くカギがあると
  悟る。

□海運への展望を胸に抱いた龍馬は、
  郷土の志士・武市瑞山らが組織する
  土佐勤王党に入る。

  ある日、龍馬が武市の家を訊ねた時、
  龍馬が武市の家の庭先で立ち小便を
  して、武市の妻君に叱られた。
  しかし、これを見た武市は、「あれは
  なかなかの傑物だ。用を足したぐらい
  で、悪くは言えん」と述べ、取り成して
  くれた。

□土佐勤王党での龍馬の働きはなかなか
  のもので、剣術修業を名目に、長州の
  久坂玄瑞を訪ね、武市の手紙を渡す
  など武市の重要な使者を果たす活躍
  を現した。

  しかし、龍馬は土佐勤王党の主張する
  尊王攘夷に対して、違和感を持って
  いた。
  河田小龍から海外情勢を聞いて以来、
  龍馬は欧米列強の進んだ考えに魅せら
  れていた。
  欧米列強のオープンな外交と強いもの
  同士で共存する規律などを龍馬は、日
  本にはない関心な事柄として受け止め
  ていた。
  やたらメッポウ、外夷討滅(がいいとうめ
  つ)を叫ぶ尊王攘夷者を龍馬は冷めた
  目で見ていた。

  特に土佐藩内で藩政改革を実施し、開
  明的な志士として名を馳せていた吉田
  東洋を土佐勤王党は、毛嫌いしていた。
  吉田東洋が開明的な公武合体派だった
  ことが気に喰わなかったらしい。
  開明な志士を認めない土佐勤王党を
  見限った龍馬は、1862年(文久2年)
  3月24日、土佐藩を脱藩した。
  武市は、この龍馬の行為を「龍馬は土佐
  にあだたぬ(収まりきれない)奴じゃから
  」と述べたという。

  龍馬が脱藩してから2週間後、開明で
  土佐藩政の改革を推進してきた吉田東
  洋が土佐勤王党の志士たちの手にかか
  り、暗殺されてしまう。
  土佐藩にとって、有能な人材を失うこと
  を龍馬はあまり望んでいなかったため、
  以後、土佐勤王党とはかかわりをもたな
  くなる。

□脱藩後、龍馬は長州から九州方面をぶら
  つき、1862年(文久2年)8月に江戸へと
  向かった。
  龍馬は、剣の師・千葉定吉の息子・千葉
  重太郎とともに、松平春嶽を訪ねた。
  日頃から暴論を吐く、幕臣の勝海舟と
  横井小楠に面会したいので、紹介状を
  書いてくれるよう頼みに行ったのだ。
  龍馬は、紹介状を手にして、当時、幕府
  の軍艦奉行並の職に就いていた勝を
  訪ねていった。

  勝海舟の宅についた龍馬は、事と次第
  によっては、勝を斬るつもりで乗り
  込んだ。
  丸腰で現れた勝は、大声で龍馬に対し
  「わしを斬りに来たのであろう。だが、ま
  ずはわしの話を聞いてからでも遅くはあ
  るまい」と述べ、居間へと案内した。
  そこに置かれた地球儀を示して、日本が
  世界から見て、どれほど小さいかを示し
  、海に囲まれた日本がいかに進むべき
  かを明快に説いた。

  龍馬は勝の悠然たる振る舞いと深い知
  識に裏付けられた日本の取るべき指針
  と理想を掲げる姿に深い感銘を受け、そ
  の場で勝の門下生を願い出た。

  以後、龍馬は勝海舟の活動に協力し、
  日本の海事に携わってゆくこととなる。
  勝に会った衝撃を龍馬は、故郷にいる
  姉の乙女(おとめ)に宛てた手紙の中で
  こう紹介している。
  「この頃は天下無二の軍学者・勝麟太郎
  という大先生の門人となり、ことの外(ほ
  か)可愛がられて候(そうろう)。
  客分のようなものだが、近きうちに大坂
  より十里ばかり離れた地にある兵庫と
  いう所にて、大きな海軍を教える舎を
  こしらえる。
  また、40間、50間もある船をこしらえて、
  門弟どもも400~500人も諸方より、
  集まってくる。」
  ウキウキとした文面が見え、龍馬の勝
  への期待が込められていることが判る。
  ここで出てくる”兵庫”とは、1863年(元
  治元年)5月に設立された神戸海軍操練
  所のことである。

  この年、京都で武市に会った龍馬は、
  もう攘夷の時ではないと話、これからの
  時代は海運の時代と説いた。
  武市はいつもの大ボラといって、笑って
  取り合わなかったという。

□1863年(文久3年)、龍馬は神戸海軍操
  練所設立のため、勝海舟の片腕となっ
  てその準備に奔走した。
  10月には、その塾頭に選ばれるなど、
  日本海事の未来を担う若者のリーダー
  として活躍した。

  しかし、操練所は幕府の運営費で活動
  していたが、実際は幕臣だけでなく、
  諸藩の藩士や脱藩浪士なども通い詰め
  、尊王攘夷論者も少なくなかった。
  そのため、幕府の公金で過激な志士を
  養うわけにはいかないとして、幕府は
  早々に操練所閉鎖を決めてしまう。

□1864年(元治元年)10月、勝海舟は解職
  となり、操練所も閉鎖してしまうと、龍馬
  は行き場を失い途方に暮れる。
  仕方なく、龍馬は他の塾生たちとともに
  海舟の周旋で薩摩の西郷隆盛の世話
  になることにした。

  薩摩藩としても、最新の航海技術と知識
  を持った塾生たちを一種のエリート的存
  在として迎え入れた。
  藩の航海術の向上も見込めるとの判断
  からであった。

□1865年(慶応元年)5月、龍馬は薩摩藩
  の家老・小松帯刀とともに長崎に向かい
  、長崎亀山に宿を構えて、薩摩藩の援
  助のもと、”亀山社中(かめやましゃちゅ
  う)”を作った。
  日本最初の総合商社として、日本の近
  代海運業の幕開けを宣言したのである。
  ”亀山社中”は、操練所で修得した航海
  術を駆使して、物資の海上輸送を行う
  海運業を営み、それと同時に依頼者の
  仲介役や周旋を行うブローカー的役割
  も担うまさに近代的な総合商社の構えを
  持っていた。

  特に孤立無援で物資の補給に事欠く、
  長州藩ではまさに天からの授かりもの
  であった。
  ”亀山社中”の方針は、たとえ相手がや
  ばい存在であっても、気にせず商売を
  行う図太い神経を掲げていた。
  幕府ににらまれている長州藩に物資の
  提供を斡旋する商社は、日本国内で
  ただ一つだったのだ。
  長州藩との武器取引で、莫大な利益を
  上げた龍馬は、豪商の郷士出身という
  血筋を如何なく発揮した。
  武骨一片のお堅い志士たちには、到底
  発想すらつかない型破りな行動で
  あった。

□龍馬が以前から思い描いてきた海運業
  で大成功を収めた頃、次なる行動を龍
  馬は行う。
  仕事は部下に任せて、彼自身は、薩長
  同盟のために東奔西走を始めたのだ。
  ともに犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩
  をともに一つの目標である討幕達成の
  ために仲たがいの呪縛を取り除き、見事
  薩長同盟を成立させた功績は、龍馬の
  維新における最大級の功績の一つと
  いえる。

□その後、”亀山社中”は、持ち船を第二次
  征長の役で失い、仕事ができなくなる。
  困った龍馬は、土佐藩の後藤象二郎に
  近づいた。
  後藤は、脱藩したとはいえ、日本を揺る
  がすほどの大活躍をしている元土佐藩
  士である龍馬に注目していた。
  薩長両藩から見て、出遅れた気分すら
  ある土佐藩は、なんとしても巻き返しを
  図りたく、必死の手探りを敢行していた。

  そんな中、龍馬が活動不振に陥って、
  土佐に転がり込んできたことを知った
  後藤は、すぐさま龍馬に全面協力をする
  申し出をして、脱藩藩士・坂本龍馬とそ
  の一味を土佐藩に取り込んでしまった。
  ”亀山社中”を土佐藩の組織下に置き、
  名称も”海援隊(かいえんたい)”と改め
  、土佐藩勇躍のための足がかりとした。

  龍馬自身は後藤に利用されているという
  感覚はなく、逆に「土佐藩24万石を率い
  て、天下国家のために行動する」と大喝
  して、得意満々であったという。

□1866年、薩長同盟の立役者を演じ、討
  幕派の結束に一役買った龍馬を幕府の
  役人や佐幕派の浪士たちが龍馬の命
  を付けねらうようになった。
  公武合体を主張する佐幕派の一角を
  担う土佐藩の中に討幕の立役者がいる
  ということで、その憎しみも一塩であ
  った。

  西国諸藩の連合を強め、討幕派の勢い
  を富ませたことで、龍馬は幕吏らに命を
  狙われるようになり、寺田屋で幕府の役
  人に襲われることとなった。

  この時、龍馬は、長州藩の高杉晋作より
  贈られたアメリカ製のスミス・アンド・ウェ
  ッソン六連発ピストルを所持しており、幕
  吏らの襲撃の際、応戦するために使用
  した。
  しかし、放った五発はことごとく外れ、相
  手への威嚇にしかならなかった。

□第二次長州征伐では、長州藩を支援し、
  自らも海援隊を率いて、長州藩海軍を指
  揮した。

□1867年(慶応3年)6月、長崎から京都へ
  向かう船の中で、龍馬は天皇を頂点とす
  る議院制を構想(船中八策(せんちゅう
  はっさく))する。
  この舩中八策を後藤象二郎に示し、幕
  府統治がいかに古臭い制度であるかを
  説き、新しい日本政治の青写真を描い
  て見せた龍馬は、まさに維新最大の構
  想家であった。
  後藤は龍馬の策案を元土佐藩主・山内
  容堂に説き、大政奉還を実現させた。
  この時、後藤は卑劣にも龍馬の名前を
  一切出さず、まるで自分が発案者・発起
  人であるように振る舞ったという。

  山内容堂が将軍・徳川慶喜に差し出
  した建白書には、すでに時勢は移り変わ
  り、新しき日本を建設するには、政権を
  委譲すべき旨が書かれており、この見事
  な文章は、坂本龍馬の秘書役・長岡謙
  吉の手によるもの。

  ●船中八策の内容●

  ○天下の政治権力を朝廷に返上する
    事。

  ○上議院と下議院の二つの政治局を
    作り、何事も国民の意見により決め
    る事。

  ○才のある公卿や大名は顧問にして、
    位を与える事。

  ○外国との交渉に際し、規則を定める
    事。

  ○昔からの法令は、よい部分を残し、
    大典にまとめる事。

  ○海軍を強大にする事。

  ○天皇を守る軍隊を作り、また帝都の安
    全をはかる事。

  ○金銀と物の値段は、外国のそれと均
    等にする事。

  外国の諸事情にも通じた内容と成ってお
  り、この辺は勝海舟の助言があったと見
  える。
  また、諸文にさまざまな人物の発案も
  盛り込まれており、龍馬一人が独創で
  編み出した策案ではないことがわかる。
  幕臣の大久保一翁、勝海舟、横井小楠
  、松平春嶽など開明派の考えが盛り込
  まれている。
  その意味で、この船中八策は、龍馬が
  情報収集で集めたすぐれた案件を一ま
  とめに集大成したものなのである。

  龍馬は、幕府の独裁を止めさせ、諸大
  名や藩の代表が集まって、政治を執り行
  う共和政治を構想した。
  それと同時に封建的な身分制度を止め
  て、選挙によって選ばれた者が藩の代
  表となり、藩政を執り行うべきだと考えて
  いた。
  この頃、諸大名の間でも欧州の議会制
  度を真似た諸大名が参加する議会制度
  の政治構想が広まっていた。
  龍馬は大政奉還が重用な政治局面であ
  ると認知していたため、後藤象二郎への
  手紙の中で、”もしも大政奉還が行われ
  なかった時には、将軍を待ち受けて刺し
  違える覚悟を決める”と書いている。

□京都で中岡慎太郎とともに見廻組の刺客
  に暗殺された。千葉道場で免許皆伝を
  得たほどの剣術の達人であった龍馬が
  簡単に斬られるはずはなかったのだが、
  刀をそばに置いていなかったことやカゼ
  気味であったことが命取りとなった。

Wikipedia「坂本龍馬」から引用
Wikipedia「坂本龍馬」から引用
坂本龍馬の愛妻・樽崎龍とされる写真。
近年は、間違いとされている。
Wikipedia「坂本龍馬」から引用
坂本龍馬。慶応2年または3年に上野撮影局で撮影された。
革のブーツを履いている。
Wikipedia「坂本龍馬」から引用
坂本龍馬(左から3人目)と海援隊士
坂本龍馬座像。慶応3年頃撮影
くつろいだポーズを取る龍馬
Wikipedia「坂本龍馬」から引用
『大政奉還図』邨田丹陵筆
260年の長きに渡って、天下を治めてきた徳川幕府が
閉幕した瞬間は、厳かに、速やかに執り行われた。

参考:Wikipedia「坂本龍馬」