幕末(1853年~1867年)の日本において、結核(肺結核)は「労咳(ろうがい)」や「肺病(はいびょう)」という名称で知られており、庶民から武士階級、さらには幕府の高官や志士に至るまで広く猛威を振るった病気でした。
幕末の結核事情について、以下で詳しく解説していきます。
Contents
1. 幕末の結核(労咳)とは?
幕末期における結核は、まだ結核菌の存在や感染メカニズムが明らかになっておらず、「労咳」「肺病」と呼ばれ、原因不明の「不治の病」として恐れられていました。
名称 | 意味・特徴 |
---|---|
労咳(ろうがい) | 咳が続き、次第に衰弱する病気。「労」は消耗、「咳」は咳の症状を表す。 |
肺病(はいびょう) | 肺を患い、激しい咳や喀血(血を吐く)を起こす病気の総称。 |
2. 幕末期における結核の症状と認識
幕末期に認識されていた結核(労咳)の症状は以下の通りです。
- 持続的な咳(空咳から痰を伴う激しい咳まで)
- 喀血(血痰や大量の出血)
- 発熱、寝汗
- 著しい体重の減少(消耗)
- 全身の倦怠感、衰弱
当時の日本人にはこの症状が恐ろしく、特に若年層での死亡例が多かったため、「若者を襲う恐ろしい病」としても知られていました。
3. 幕末期の結核流行状況と感染原因
結核は、幕末期の江戸や京都、大坂など人口密集地で特に多く発生しました。その理由としては、以下のような社会的・生活環境的要因があります。
- 都市人口の密集
長屋など密集した住環境で生活する庶民は感染リスクが高かった。 - 栄養不良と貧困
食生活が貧しく、栄養状態が悪いと感染しやすく、症状が重症化しやすかった。 - 衛生状態の悪さ
換気の悪い住居環境は結核の飛沫感染を助長しました。 - 医療の未発達
幕末期には結核に有効な治療法が存在せず、感染予防策もなかった。
4. 幕末期の治療法・対処法
幕末期の日本には、結核に対して有効な医療技術は存在しませんでした。そのため、主に以下のような方法が行われました。
漢方医学的な治療法(主流)
- 滋養強壮剤の漢方薬(人参・当帰・芍薬・桂皮など)を処方。
- 栄養を補うために食事療法が勧められましたが、貧困層では実践が難しかった。
- 療養・転地療養(温泉地や空気のきれいな地方への移動)を勧める医師もいました。
漢方医学の限界
- 効能は一時的な症状緩和に過ぎず、根本的な治療効果はなかった。
- 衛生観念や感染症としての理解がなく、治癒例は稀でした。
5. 結核に苦しんだ幕末の著名人
幕末期には多くの志士や文化人が結核で命を落としました。代表的な人物は以下の通りです。
人物名 | 身分・業績 | 状況・影響 |
---|---|---|
沖田総司(新選組) | 新選組一番隊隊長 | 激しい咳と喀血を伴う結核を患い、病死したとされる。 |
高杉晋作(長州藩) | 倒幕運動の中心人物 | 結核により喀血を繰り返し、27歳の若さで死去。 |
正岡子規(後年明治期に活躍) | 俳人・文学者 | 幕末に感染し、明治に入っても結核が再発。生涯病気に苦しんだ。 |
このように、幕末期には若くして結核で命を落とす人物が多く、幕末志士たちの活動にも大きな影響を与えました。
6. 幕末期の社会的影響
結核は幕末社会に大きな影響を及ぼしました。
- 不治の病への恐怖感の拡大
- 結核は治療法がなかったため、「不治の病」として人々に恐れられました。
- 家族が罹患すると周囲から忌避されることも多く、結核患者に対する差別や偏見が強まりました。
- 人口動態への影響
- 若年層の死因として上位に位置し、人口増加を抑える要因となった。
- 医学の発展を促す動き
- 結核治療の必要性が叫ばれ、蘭学者や医者たちが西洋医学を学ぶきっかけの一つとなった。
7. 結核への西洋医学の影響(蘭方医学の導入)
幕末には、蘭方医学が日本に本格的に導入され始め、西洋の医学書を通じて肺結核が感染症であることが徐々に理解されていきました。
- オランダ語の医学書により結核が「伝染性疾患」であるという理解が少しずつ広まりましたが、有効な薬剤はまだ存在しませんでした。
- 西洋医学的な衛生観念(換気・日光浴・栄養摂取)が推奨され始めましたが、一般庶民にまで広く浸透するのは明治以降です。
8. 幕末期から明治以降への移行
結核の効果的な治療法や予防法が日本に広まるのは、明治以降(特に明治後期~大正期)です。
- 明治以降、「国民病」として結核の研究・治療・予防が重要課題となった。
- 明治政府は衛生改善、公衆衛生の強化、医療制度の整備を推進し、結核対策に力を注ぎました。
- 明治末期に結核菌の発見や結核療養所の設置、BCGワクチンの導入などが進んだ。
幕末期はまさに、この結核を巡る認識が変わりつつある過渡期だったのです。
まとめ
幕末期の日本において結核(労咳)は、多くの人々を苦しめ、多数の死者を出した恐ろしい病気でした。この時期の結核に対する認識はまだ限定的で、有効な治療法もほぼ存在しませんでしたが、蘭学を通じた西洋医学の導入により、その後の医学的理解や公衆衛生の基礎が形成される契機となりました。
幕末に猛威を振るった結核は、後の明治政府の医療改革・公衆衛生政策の強化の原動力となり、日本の医療史上、重要な転換点の一つとして記憶されています。