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幕末の尊王攘夷思想とは?
尊王攘夷(そんのうじょうい)は、幕末の日本(19世紀中頃~後半)に広まった政治思想で、「尊王」と「攘夷」という2つの概念が組み合わさったものです。これは、幕末の混乱の中で日本の伝統的価値観や外国勢力への反発心から生まれ、多くの志士や武士たちの行動を支える思想となりました。やがて、幕府の権威を揺るがし、明治維新を導く原動力となりました。
以下では、尊王攘夷思想の定義、歴史的背景、思想の内容、広がりと影響、主要人物、具体的な運動、変遷、最終的な結末について詳しく解説します。
1. 尊王攘夷の定義と成り立ち

尊王攘夷は「尊王」と「攘夷」の2つの異なる概念が結びついた思想です。
1-1. 尊王
- 「尊王」は、「天皇を敬い、国家の正統な君主として尊重する」という意味です。
- 天皇を国家の中心に据え、日本の正当な統治権を天皇が持つべきだとする考えに基づいています。
1-2. 攘夷
- 「攘夷」は、「異国の侵略を排除し、外国勢力を日本から追い払う」という意味です。
- 外国勢力に対する反発や危機感から生まれた考えで、特に幕末期の開国に反対する人々のスローガンとなりました。
1-3. 尊王と攘夷の結合
- 初めは「尊王」と「攘夷」は別々の思想でしたが、幕末における外圧(ペリー来航、条約締結など)や幕府の弱体化を背景に、両者が結びつき、「天皇を中心とした日本国家の復興」と「外国勢力の排除」を目指す政治思想として発展しました。
2. 尊王攘夷思想の歴史的背景

幕末に尊王攘夷思想が広まった背景には、国内外のさまざまな要因がありました。
2-1. 国内の要因
- 幕府の権威の低下:
- 長い鎖国政策の間、江戸幕府は日本全土を安定的に支配してきましたが、18世紀後半以降、財政難や飢饉(天明の大飢饉、天保の大飢饉)により、支配体制が揺らぎました。
- 幕府が外国との交渉で失態を見せるたびに、武士や民衆の間で「幕府の正当性」への疑問が高まりました。
- 水戸学の影響:
- 尊王思想は、徳川光圀(初代水戸藩主)以来の「水戸学」によって体系化されました。
- 水戸学では、天皇を日本の正統な統治者とし、幕府の役割を「天皇を補佐する存在」と位置づけていました。
2-2. 外圧の増大
- ペリー来航(1853年)と開国:
- 1853年、アメリカのマシュー・ペリー提督が浦賀に来航し、日本に開国を要求しました。
- 翌年の日米和親条約、さらに1858年の日米修好通商条約では、不平等な条件での開国を余儀なくされ、日本国内で外国への反発が強まりました。
- 外国勢力の拡大:
- 当時、清(中国)がアヘン戦争(1840年~42年)でイギリスに敗北したことや、東アジア諸国が次々と西洋列強の支配下に入る様子を見て、日本国内でも危機感が高まりました。
3. 尊王攘夷思想の内容と広がり

尊王攘夷思想は、特に下級武士や志士たちの間で支持されましたが、次第に広い層に広がっていきました。
3-1. 主な内容
- 天皇の権威の復活:
- 天皇を中心とした統治体制を復活させるべきという考えが尊王思想の基盤でした。
- 攘夷(外国勢力の排除):
- 外国勢力を排除し、伝統的な日本を守ることが目指されました。
- 幕府の改革または打倒:
- 幕府を再構築するか、あるいは倒幕して天皇中心の新しい体制を築くべきという意見が次第に高まりました。
3-2. 広がり
- 長州藩や薩摩藩などの雄藩:
- 長州藩(現在の山口県)は尊王攘夷運動の中心地となり、攘夷の実行や倒幕運動を主導しました。
- 薩摩藩(現在の鹿児島県)は、尊王思想を掲げつつも現実的な外交政策を追求しました。
- 下級武士と志士:
- 下級武士たちは、現状に不満を抱き、尊王攘夷思想を掲げて行動しました。
- 吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作などが代表的な人物です。
4. 尊王攘夷思想に基づく具体的な運動

幕末には、尊王攘夷を実現しようとするさまざまな運動が展開されました。
4-1. 攘夷の実行
- 外国船砲撃事件:
- 長州藩は1863年、下関海峡を通過する外国船を砲撃しました。
- しかし、翌年、報復として四国連合艦隊(英・仏・蘭・米)による下関戦争が勃発し、攘夷政策の非現実性が明らかになりました。
- 薩英戦争(1863年):
- 生麦事件(薩摩藩士がイギリス人を殺害)をきっかけに、イギリスと薩摩藩が衝突。
- 薩摩藩は戦争を通じて外国の軍事力を認識し、以降は現実的な近代化政策に転じました。
4-2. 倒幕運動への転換
- 攘夷の実行が失敗するにつれ、尊王攘夷思想は「倒幕」という新たな目標へと方向転換しました。
- 薩長同盟(1866年):
- 尊王攘夷の志を共有する薩摩藩と長州藩が同盟を結び、倒幕運動の中心勢力となりました。
- 王政復古の大号令(1867年):
- 天皇を中心とした新政府樹立を宣言し、徳川幕府を廃止しました。
5. 尊王攘夷思想の変遷と結末

尊王攘夷思想は、幕末を通じてその性格を変化させました。
5-1. 攘夷から開国へ
- 当初は外国勢力の排除を目指した攘夷が主流でしたが、攘夷の現実的困難が明らかになると、開国と近代化を通じて外国に対抗する方向へと転じました。
5-2. 倒幕運動の思想的基盤
- 尊王攘夷思想は、幕府打倒と明治維新への原動力となり、明治新政府の成立に結びつきました。
6. 尊王攘夷思想の影響と歴史的意義

尊王攘夷思想は、幕末の政治運動の中心的な位置を占め、日本の近代化に大きな影響を与えました。
6-1. 政治体制の転換
- 天皇を中心とする国家体制が復活し、明治時代の立憲君主制の基盤となりました。
6-2. 社会運動の形成
- 下級武士や庶民を巻き込む政治運動の先駆けとなり、日本の近代的な政治文化の出発点となりました。
7. 尊王攘夷思想に関わる人物

- 吉田松陰(長州藩):
- 尊王攘夷思想を説き、多くの志士たちに影響を与えました。
- 坂本龍馬(土佐藩):
- 尊王攘夷から開国と倒幕へ転向し、薩長同盟を仲介しました。
- 西郷隆盛(薩摩藩):
- 尊王思想を支持し、倒幕運動のリーダーとなりました。
結論
尊王攘夷思想は、幕末という混乱の時代において、日本の政治的・社会的変革を牽引した重要な思想です。当初は攘夷を掲げて外国排除を目指しましたが、その後の現実的な展開を経て、倒幕運動や近代化へと転換しました。この思想の持つ「天皇の正統性」と「日本の独立性」を強調する側面は、明治維新を通じて近代日本の成立に大きな影響を与えました。
