篠原 国幹

しのはら くにもと

1836-1877 享年42歳。

名称:冬一郎
身分:薩摩藩士

□幼少期から西郷隆盛と面識を持ち、
  西郷の影響を多大に受けて育つ。西郷
  の弟分として、常に西郷助力に奮闘
  した。

□学業にすぐれていたため、藩校・造士館(
  ぞうしかん)に入学を許され、英才教育
  を受けた。
  しかし、薩摩藩の俊逸・有馬新七の主張
  に共鳴し、過激派尊攘の運動に身を投
  じていく。
  寺田屋事件が勃発し、禁固刑を喰らう。

□薩英戦争の時に軍功を挙げて、罪を赦さ
  れた。
  戊辰戦争では、薩摩藩軍の精鋭部隊で
  ある小銃三番隊の隊長となり、各地を転
  戦した。
  指揮官は名軍師と謳われた伊地知正治
  であった。

□1871年(明治4年)に御親兵が創設される
  と陸軍大佐に任じられ、のちに陸軍少将
  にまで昇進を果たした。

□1873年(明治6年)、征韓論を主張する西
  郷が、大久保らの反対にあい、政府を
  去った。
  この時、篠原も西郷に同調して政府を去
  っている。
  西郷に従い鹿児島に戻った篠原は、西
  郷が主導者となって、私学校が開かれ
  るとその教官となって、子弟の教育に
  あたった。

□1877年(明治10年)、西南戦争が勃発す
  ると篠原は西郷軍に参加し、指揮官とし
  て、陣頭指揮を成した。
  熊本城包囲を成した西郷軍は、50日間
  にも及ぶ兵糧攻めを行った。
  だが、城は落ちずに黒田清隆の援軍部
  隊が来襲し、篠原は激戦をもって斥けよ
  うとし、奮戦を成す。
  だが、敵軍の猛攻にあい、討死にを遂
  げている。

Wikipedia「篠原国幹」から引用
西郷隆盛と共に若者たちの育成に尽力したが、西南戦争で華々しく散った。

参考:Wikipedia「篠原国幹」