新政府なのに、なぜ江戸幕府の「禁教」をそのまま続けたのか

明治維新は「新しい日本の始まり」と説明されます。

幕府が終わり、新政府ができる。

西洋の制度や技術を学ぶ。

文明開化が進む。

このイメージからすると、明治政府は成立直後から宗教の自由を認めたように感じるかもしれません。

しかし実際には違います。

明治政府は当初、江戸幕府以来のキリスト教禁制を維持しました。

そして1873年2月24日、太政官布告によってキリスト教禁止の高札を撤去します。

なぜ新政府は一度禁教を続け、その数年後に方針を変えたのでしょうか。

明治維新で法律がすべて一夜にして変わったわけではない

政権が変わると、前政権の政策を全部ゼロから作り直すように思えます。

しかし実際の国家運営では、そんなことはできません。

行政。
治安。
税。
外交。
宗教政策。

新しい制度が整うまで、旧制度を暫定的に引き継ぐ部分があります。

キリスト教禁制もその一つでした。

キリスト教への警戒には長い歴史があった

江戸幕府はキリスト教を長期間禁止しました。

信仰そのものだけでなく、

外国勢力との結びつき。
政治秩序への影響。
統治上の問題。

が警戒されました。

この考え方は、幕府が倒れた瞬間に社会から消えるわけではありません。

明治政府も「外国宗教」に警戒した

明治政府は西洋技術を積極的に導入します。

しかし、

西洋技術を学ぶこと

と、

西洋宗教を自由に広めること

は別問題でした。

政府は国家統合を進める中で、宗教も政治秩序に関わるものとして見ます。

新政府は神道を重視する方向を強めた

明治初期には、天皇を中心とする新しい国家秩序を作る上で神道が重視されました。

神仏分離政策など、宗教制度そのものが大きく動きます。

この時期の政府にとって、宗教政策は個人の信仰だけでなく国家建設の問題でした。

だからキリスト教だけをすぐ自由化しなかった

現代の感覚では、

「信仰は個人の自由」

と考えます。

しかし明治初期の政府が最初から同じ考えを持っていたわけではありません。

政府はまず、国内秩序をどう作るかを優先しました。

その中でキリスト教禁制を維持します。

それでは、なぜ1873年に撤去したのか

国立公文書館によれば、1873年2月24日、太政官布告第68号によってキリシタン禁制の高札が撤去されました。

江戸時代初期から続いた禁教政策に終止符が打たれたと説明されています。

数年で政策を変えた背景には、国内事情だけでなく外交問題がありました。

西洋諸国から見れば「キリスト教弾圧」は重大問題だった

明治政府は欧米諸国と外交関係を持っています。

その一方でキリスト教徒を処罰する。

これはキリスト教国側から強く批判されます。

日本が欧米諸国と対等な外交関係を築こうとするなら、宗教弾圧は大きな障害になります。

不平等条約改正を目指す国が宗教弾圧を続ける矛盾

明治政府は、幕府が締結した不平等条約を将来的に改正したいと考えていました。

そのためには、

「日本は近代国家として国際社会のルールを理解している」

と認めてもらう必要があります。

ところがキリスト教を禁止し続ければ、欧米側から

「宗教の自由もない国」

と見られます。

外交上、不利になります。

国内統治と外交の利害が衝突した

政府には二つの目的があります。

国内秩序を維持したい。
外国との関係も改善したい。

禁教を続ければ国内統治上は安心できると考える人がいても、外交上のコストが大きくなります。

ここで政策転換が必要になります。

高札撤去は「明日から完全な宗教自由」という意味なのか

ここは注意が必要です。

1873年の高札撤去は非常に重要な転換です。

しかし現代の日本国憲法のような宗教の自由が、その瞬間に完全に整ったという意味ではありません。

宗教団体への行政管理や制度はその後も変化します。

高札撤去は、長く続いた公的な禁教政策を終わらせる大きな一歩でした。

明治政府は西洋を「選んで」取り入れていた

明治政府は西洋化を進めた、と一言で言われます。

しかし実際には、

軍事技術は取り入れる。
教育制度を学ぶ。
法律制度を研究する。
宗教は慎重に扱う。

という選別があります。

西洋のものを全部一括で受け入れたわけではありません。

政策変更は「以前の対応を続けない」と決めること

一度政府が禁止したものを認めるのは簡単ではありません。

政策変更は、

「これまでの対応を今後も続ける必要はない」

と判断することです。

明治政府は外交・国内状況の変化に応じて方針を変えました。

なぜ1873年という時期なのか

明治政府は成立後、廃藩置県、徴兵令、学制など大きな制度改革を進めます。

同時に岩倉使節団が欧米を視察します。

日本が国際社会の中でどう見られるかを強く意識する時期です。

キリスト教禁制の維持が外交上大きな問題になることも明確になります。

「文明国」と見なされることが外交力に関係した

19世紀の国際関係では、欧米諸国が自分たちの制度を基準に他国を評価する傾向が強くありました。

日本にとって不公平な面があります。

しかし条約改正を進めるには、その現実に対応する必要がありました。

宗教政策も外交戦略の一部になります。

禁教をやめれば国内秩序が崩れるという不安

政府内や社会には、

キリスト教を認めたら外国勢力の影響が強まるのではないか。
日本の伝統秩序が崩れるのではないか。

という不安がありました。

だから政策転換は単純ではありません。

技術は欲しい、宗教は怖いという矛盾

明治初期の日本は、西洋から多くを学ぼうとします。

蒸気機関。
鉄道。
軍隊。
医学。
法制度。

しかし宗教については警戒します。

この姿勢は一見矛盾します。

しかし政府から見れば、国家強化に役立つ技術と、人々の価値観や忠誠に影響する宗教は別物でした。

西洋側にも政治的意図があった

欧米諸国がキリスト教徒の扱いを問題にしたのは、人道的関心だけとは限りません。

外交的圧力の材料にもなります。

日本政府は、宗教問題が外国の介入理由になることも避けたかったでしょう。

禁制撤廃は「外国に負けた」だけではない

外国から批判されたから撤廃した、とだけ説明すると単純です。

明治政府自身が近代国家化を進める中で、

個人信仰を国家反逆と直接結びつけ続ける政策

の必要性が下がっていきました。

外交圧力と国内制度改革が同時に作用したと見るべきです。

国家統一が進むと宗教管理の方法も変わる

幕府時代は寺請制度など、宗教と身分・地域統治が強く結びついていました。

明治政府は戸籍、警察、行政など別の仕組みで国民を直接管理する方向へ進みます。

国家統治の仕組みが変われば、宗教を管理する方法も変わります。

高札という形式そのものも古い統治手段だった

高札は、法令や禁令を人々へ知らせる江戸時代以来の手段です。

明治政府は近代的な法令・行政制度へ移行していきます。

キリスト教禁制高札の撤去は、宗教政策だけでなく、旧来の統治手段からの転換という面もあります。

「解禁」と「信教の自由」は分けて考える

禁制高札を撤去する。

これは「禁止しない」方向への大きな変更です。

しかし現代的な信教の自由には、

信じる自由。
信じない自由。
宗教団体を作る自由。
国家から不利益を受けない権利。

など多くの要素があります。

1873年を現代制度の完成日と考えるのは適切ではありません。

明治国家の宗教政策はその後も揺れ続けた

明治政府は宗教を国家と無関係な完全な私事にしたわけではありません。

神道と国家の関係、宗教行政、教育との関係など、さまざまな課題が続きます。

1873年は一つの大きな転換点です。

政策を変えられる政府だったことも重要

幕末・明治の指導者たちは、短期間で政策を大きく変えます。

攘夷から開国。
藩から県。
武士軍から徴兵制。
禁教から高札撤去。

急速な変化は混乱も生みます。

しかし国際環境や国内条件が変われば、過去の政策を修正する柔軟性も必要でした。

維新政府は「全部新しくする政府」ではなかった

新政府という言葉から、旧幕府の制度をすべて否定したように見えます。

実際には、使える制度は一時的に引き継ぎ、必要に応じて変更しています。

キリスト教禁制も、

最初は継続する。
外交・国内事情が変わる。
高札を撤去する。

という段階的な変化でした。

国内政策と外交政策は切り離せない

宗教は国内問題に見えます。

しかし外国人宣教師や欧米政府が関心を持てば、外交問題になります。

明治政府は、

国内で何を禁止するか

を決める際にも、

外国がどう反応するか

を考えなければならなくなりました。

開国後の国家運営の特徴です。

条約改正との関係

不平等条約改正を目指す以上、欧米諸国から近代国家として認められることは重要でした。

法制度。
裁判制度。
外交慣行。
宗教政策。

これらが日本への評価に関係します。

キリスト教禁制の撤廃は、単独の宗教政策ではなく、近代国家としての国際的位置づけにも関わる政策でした。

政策転換は「信仰を推奨した」ことではない

禁制を撤廃することと、政府がキリスト教信仰を推奨することは全く違います。

政府は、

信仰すること自体を国家の犯罪として扱う政策

から離れました。

これはキリスト教を国教にすることでも、伝統宗教を否定することでもありません。

禁制を維持した政府にも「連続性」があった

明治政府は革命政府ですが、社会全体は一夜で入れ替わりません。

役人。
地域社会。
寺社。
法令。
人々の常識。

これらは旧制度から連続しています。

そのため宗教政策だけを突然大きく変えると、行政現場が混乱する可能性もあります。

新政府は旧制度を一定期間利用しながら、自分たちの統治方式へ置き換えていきました。

宗教政策は治安政策でもあった

政府が宗教を警戒した理由は、教義の好き嫌いだけではありません。

人々がどの組織へ帰属するか。
誰の命令に従うか。
地域社会でどのように集団を作るか。

これらは治安・統治に関係します。

近代警察や行政制度がまだ十分整っていない時期ほど、政府は新しい宗教運動へ慎重になりやすくなります。

「禁止をやめる」には国家側の自信も必要だった

国家統治が不安定な時、政府は未知の集団を脅威と感じやすくなります。

しかし中央集権化が進み、戸籍、警察、地方行政などが整えば、

信仰を禁止しなくても国家秩序を維持できる

という選択が可能になります。

制度整備が宗教政策の柔軟化を支えた面があります。

欧米への説明責任が大きくなった

開国後の日本は、国内政策であっても外国から質問されます。

なぜキリスト教徒を処罰するのか。
なぜ信仰を禁止するのか。

政府は外国公使との交渉の中で説明を求められます。

幕府時代よりも、国内政策と国際評価の距離が近くなりました。

岩倉使節団が見た欧米社会

岩倉使節団は欧米の政治・産業・教育などを視察しました。

その過程で、日本が国際社会からどう見られているかも認識します。

欧米諸国でキリスト教が社会制度と深く結びついていることを目にすれば、日本の禁教政策が外交上どれほど異質に見えるかも理解しやすくなります。

「外圧で撤廃した」という説明だけでは不足する

外国の批判は重要です。

しかし外圧だけで政策が変わるなら、国内の国家制度との整合性を説明できません。

明治政府はすでに、身分制度、地方制度、軍制、教育制度などを大きく変えていました。

宗教政策の転換も、その国家再編の中で起きています。

政府は宗教を完全に放任したわけではない

禁教をやめても、政府が宗教政策から撤退したわけではありません。

宗教団体の管理。
神社制度。
教育との関係。
国家儀礼。

これらの問題はその後も続きます。

だから1873年を、

「宗教と国家が完全に分離した年」

とするのは正確ではありません。

旧幕府政策を継ぐことと、旧幕府を肯定することは違う

明治政府は幕府を倒しました。

それでも、幕府が使っていた制度の一部を当面維持します。

これは幕府政治を肯定したという意味ではありません。

新しい仕組みができるまで、既存制度を利用する現実的判断です。

キリスト教禁制の継続も、その文脈で考えると理解しやすくなります。

宗教の自由は一つの布告で完成しない

国家と宗教の関係は非常に複雑です。

禁止を撤廃する。
布教をどう扱うか決める。
宗教団体をどう法人化するか決める。
学校教育と宗教の関係を整理する。

多くの制度が必要です。

1873年は、その長い変化の大きな節目でした。

明治政府の特徴は「短期間で方針を変えたこと」

新政府は、成立直後に採用した政策を永遠に守ったわけではありません。

必要なら数年で変更します。

キリスト教禁制の撤廃は、その柔軟性を示す例です。

政策の一貫性より、国家建設の現実に合わせることが優先されました。

外交上の信用と国内の権威を両立させる必要

外国の要求をそのまま受け入れれば、

「外国に屈した政府」

と国内で批判される可能性があります。

逆に禁教を続ければ、

「近代国家ではない」

と外国から批判されます。

明治政府はこの二つの間で政策を調整しました。

禁制撤廃は文明開化の象徴の一つだが、単純な西洋化ではない

鉄道や洋服のように目に見える西洋化と、宗教政策は同じではありません。

禁制撤廃は、

西洋の宗教を真似した

というより、

近代外交と国内統治に合う制度へ変更した

と見る方が適切です。

「信じてもよい」と「政府が同意する」は違う

近代的な宗教政策では、

政府が教義に賛成するか

と、

個人が信仰できるか

は分けて考えます。

禁制撤廃は、この分離へ向かう重要な変化でもありました。

維新の「矛盾」は移行期だから生まれる

新政府なのに古い禁制を続ける。

西洋化するのに西洋宗教を禁止する。

数年後にその禁止をやめる。

これらは矛盾に見えます。

しかし移行期では、古い制度と新しい制度が同時に存在します。

明治初期の政策を理解するには、その過渡期性を見る必要があります。

よくある疑問

明治政府は最初からキリスト教を認めたのか

いいえ。成立直後は江戸幕府以来の禁教政策を維持しました。

禁制高札が撤去されたのはいつか

国立公文書館によれば、1873年2月24日です。

高札撤去で完全な信教の自由が成立したのか

現代的な意味での信教の自由が一日で完成したわけではありません。長期的な宗教制度変化の重要な転換点です。

なぜ政府は方針を変えたのか

欧米諸国からの批判、条約改正を含む外交上の必要、国内統治制度の変化などが背景にあります。

まとめ――明治政府は「西洋化したから解禁した」のではなく、国家戦略として宗教政策を変えた

明治政府は新しい政府でした。

しかし成立直後からすべての江戸時代政策を捨てたわけではありません。

キリスト教禁制も当初は維持されました。

外国宗教への警戒。
国内秩序維持。
国家統合。

こうした理由があります。

しかし数年後、状況が変わります。

欧米諸国との外交関係を深める。
不平等条約改正を目指す。
近代国家として認められたい。
国内統治制度も変わっていく。

その中で禁教を続ける外交・政治コストが大きくなりました。

1873年の高札撤去は、

「突然宗教に寛容になった」

だけではありません。

近代国家を作る上で、旧幕府以来の宗教統制をそのまま続けるより、政策を転換した方が国益に合うと判断した結果でした。

明治維新の「新しさ」は、最初からすべて新しかったことではありません。

古い制度をいったん引き継ぎ、現実に合わせて次々と組み替えたことにあるのです。