黒船が来たのに、なぜ撃ち払わなかったのか

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀沖へ来航しました。蒸気船を含む艦隊が江戸湾の入口に現れ、アメリカ大統領の国書受領を求めます。

後世の私たちは、この場面を「黒船来航」として知っています。ここで素朴な疑問があります。当時の日本では攘夷、つまり外国勢力を排除する考えが強まっていました。それなら幕府は外国船を砲撃し、追い返せばよかったのではないでしょうか。

しかし幕府はそうしませんでした。国書を受け取り、翌年の再来航時に交渉し、1854年3月31日に日米和親条約を結びます。なぜ幕府は「戦う」より「条約を結ぶ」道を選んだのでしょうか。

幕府は外国の軍事力をまったく知らなかったわけではない

「幕府は世界情勢を何も知らず、黒船を見て初めて驚いた」という説明は単純すぎます。江戸幕府は長崎を通じてオランダと交流し、海外情報を得ていました。

国立国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」は、オランダ側がペリー来航を事前に予告していたことを紹介しています。つまり幕府は、外国船が来る可能性そのものを全く知らなかったわけではありません。

ただし、情報として知ることと、実際に蒸気艦隊が江戸湾へ現れることは違います。現実の艦隊は、幕府に軍事力の差を突きつけました。

江戸湾で戦えば幕府自身の本拠が危ない

ペリー艦隊が来た浦賀は、遠い辺境ではありません。江戸湾の入口です。

戦闘が拡大すれば、幕府の政治・経済中心である江戸が危険にさらされます。沿岸砲台や軍船があっても、欧米の蒸気艦・艦砲と正面から戦って確実に勝てる状況ではありませんでした。

「勇気があるか」ではなく、「戦って国家を守れるか」が問題だったのです。

ペリーの要求は日本征服そのものではなかった

ペリーは軍事力を背景に交渉しましたが、アメリカ側の主要な要求は、日本を植民地として征服することではありませんでした。

船舶への補給。
遭難者の保護。
港の利用。
将来的な通商。

こうした要求を条約として認めさせることが中心です。

幕府から見れば、要求の一部を受け入れることで全面戦争を避けられる余地がありました。

1853年、幕府はその場で全面開国しなかった

重要なのは、ペリーの最初の来航時に幕府がすぐ全面的な開国を認めたわけではないことです。

国立国会図書館によれば、幕府は国書を受け取り、回答まで一年の猶予を求めました。

これは時間稼ぎでした。

その間に諸侯へ意見を求め、海防を強化し、外国事情を調べ、次の交渉方針を考えることができます。

阿部正弘はなぜ諸侯へ意見を求めたのか

老中阿部正弘は、アメリカ大統領の国書と翻訳を諸侯へ示し、意見を求めました。

外交問題が幕府だけでは処理しにくいほど大きくなっていたからです。

しかし諸侯の意見は一致しません。

開国。
攘夷。
一時的妥協。
海防を整えてから対応。

全国の有力者から意見を集めれば、むしろ政策決定が難しくなる面もあります。

攘夷を実行するには軍事力が必要だった

思想として「外国を追い払うべきだ」と言うことと、外国艦隊を実際に追い払えることは別です。

必要なのは、大砲、弾薬、砲台、近代的軍艦、訓練された兵員、全国的な指揮系統です。

幕府には一部の能力はありましたが、欧米海軍と長期戦をして確実に勝てる体制は整っていませんでした。

攘夷は精神論では実行できません。

中国のアヘン戦争敗北も大きな警告だった

1840年代、中国の清はイギリスとのアヘン戦争に敗れています。

日本側にもその情報は伝わっていました。

巨大な清国でさえ欧米海軍に敗れた。

この事実は、外国との無準備な戦争がどれほど危険かを示しました。

「撃てば相手が帰る」と楽観できる状況ではありません。

日米和親条約は自由貿易条約ではなかった

1854年の日米和親条約と、1858年の日米修好通商条約を混同すると、幕府が一度にすべてを譲ったように見えます。

国立公文書館によれば、日米和親条約では永続的な和親、下田・箱館の開港、遭難者保護などが定められましたが、本格的な通商条項はまだありませんでした。

つまり幕府は段階的に開国しました。

最初の条約は、いきなり全面的な自由貿易を認めるものではなかったのです。

「鎖国を守るか、全面開国するか」の二択ではなかった

現実の選択肢はもっと細かく分かれていました。

一切拒否して戦争する。
限定的に港を開く。
補給だけ認める。
通商は後回しにする。
海防を強化しながら交渉する。

幕府は中間的選択を積み重ねました。

条約を結びながら軍備を強化した

幕府は条約を結んだから軍事力強化をやめたわけではありません。

国立国会図書館は、幕府が海軍力強化の必要に迫られ、オランダへ軍艦購入を申し出たこと、長崎で海軍伝習が行われたことを紹介しています。

つまり、

「条約を結ぶ=外国に従って軍備を捨てる」

ではありません。

交渉で時間を確保しながら、西洋式海軍を学ぼうとしました。

西洋知識の導入も進めた

幕府は蕃書調所、後の洋書調所・開成所などを通じて西洋の学術や技術を研究しました。

海外留学生も送り出します。

これは、外国を前に何もしなかった政府の行動ではありません。

相手の軍事力を認めた上で、その強さを学び、自分たちの能力を高めようとしたのです。

それでも1858年の通商条約には大きな問題が残った

1858年の日米修好通商条約では、領事裁判権や関税など、日本側に不利な条件が含まれました。

後に不平等条約と呼ばれ、明治政府の条約改正外交の大きな課題になります。

幕府は戦争を避けることには成功しましたが、対等な外交条件を完全に確保できたわけではありません。

なぜもっと強く交渉できなかったのか

交渉力は言葉だけでは生まれません。

軍事力。
経済力。
国際情報。
外交経験。

これらが背景に必要です。

欧米諸国はアジア各地で軍事力を使っていました。

幕府側が強硬姿勢だけを示しても、相手が譲歩する保証はありません。

「戦わないこと」が国を守る場合もある

攘夷の立場から見れば、外国に要求を認めることは屈辱です。

しかし政治指導者には結果も求められます。

戦って都市が焼かれる。
海軍を失う。
さらに不利な条約を強制される。

その可能性が高いなら、交渉によって被害を避ける選択にも合理性があります。

条約締結は国内政治を不安定にした

ただし、幕府が条約を結んだことで問題が終わったわけではありません。

むしろ、

「幕府は外国に屈した」

という批判が強まります。

尊王攘夷運動が激しくなり、朝廷の政治的存在感も高まります。

外交危機への対応が、幕府の国内統治の正統性を揺さぶる結果になりました。

幕府の苦境は「外圧」と「内政」が同時に来たこと

幕府は外国との交渉だけに集中できませんでした。

諸藩。
朝廷。
攘夷派。
開国派。

国内にも多くの勢力があります。

外国に譲れば国内で批判される。
外国に強硬なら戦争の危険がある。

どちらを選んでも政治的コストが大きい状況でした。

「弱腰外交」という評価だけでは見えないもの

結果として幕府は不平等な条約を受け入れました。

そこだけ見れば弱腰に見えます。

しかし同時に、

戦争を回避した。
海軍建設を進めた。
西洋学術を導入した。
海外留学を進めた。

という対応も行っています。

幕府は「何もせず屈服した」のではなく、開国を受け入れながら国家能力を高めようとしました。

幕府は一貫して開国派だったわけでもない

幕府内部の考えは一枚岩ではありません。

老中や役人によって意見は違います。

朝廷との関係も変わります。

1853年から1860年代まで、外交方針は政治情勢に応じて揺れました。

「幕府は最初から外国に従うと決めていた」と考えるのも誤りです。

外国への妥協は「時間を買う」意味があった

近代的な海軍や工場は、一年で作れません。

技術者を育てるにも時間が必要です。

外国との全面戦争を避ければ、その時間を確保できます。

幕府が結果として十分な近代化を完了する前に崩壊したとしても、この戦略自体には合理性がありました。

外国と戦うより、外国から学ぶ方が国力を上げられる

実際、幕府だけでなく薩摩や長州も、外国との衝突後に西洋技術導入を進めます。

幕末日本全体が、

「外国を追い払う」

から、

「外国に負けないため外国から学ぶ」

方向へ変化しました。

幕府の開国判断も、この大きな流れの初期段階にあります。

「もし1853年に撃っていたら」は答えのない問い

歴史には反実仮想があります。

もし幕府がペリー艦隊を砲撃していたらどうなったか。

断定はできません。

しかし当時の軍備差を考えれば、大きな危険を伴ったことは確かです。

戦えば勇敢だった、というだけで政策を評価することはできません。

明治政府も幕府の外交課題を引き継いだ

興味深いことに、幕府を倒した明治政府も、成立直後に幕府が締結した外国条約を全面破棄しませんでした。

国際社会の中で国家を運営するには、既存の外交関係を無視できなかったからです。

この事実は、幕府が直面した問題が単なる「幕府の弱さ」ではなく、日本という国家全体が直面した国際環境の問題だったことを示します。

攘夷論の強さと、政策実行の難しさは別問題

幕末には攘夷を支持する声が急速に強まりました。しかし政治スローガンが強いからといって、国家がそのまま実行できるとは限りません。

外国船を追い払うには、海岸線全体を防御する必要があります。日本列島は長く、港も多くあります。ある湾を守れても、別の港から侵入されるかもしれません。艦隊を追い返したとしても、後からさらに大きな艦隊が来る可能性もあります。

つまり攘夷は一度の砲撃で終わる政策ではなく、継続的な全国防衛体制を必要としました。

幕府が諸藩へ意見を求めたことの副作用

阿部正弘が諸侯へ意見を求めたことは、全国的危機への対応として合理的でした。

しかし別の結果も生みました。

それまで幕府が独占してきた外交問題に、諸藩が直接発言するようになります。

「幕府だけで決めるのではなく、諸藩も国政に関与すべきだ」

という政治意識が強くなる一因になりました。

つまり外国危機への対応が、幕府の政治的独占そのものを弱める方向にも働いたのです。

条約締結は「開国」というより危機管理だった面がある

1854年の幕府を、後の明治政府のような積極的な開国政策と同じように見るのは適切ではありません。

最初の目的は、

外国と積極的に貿易して豊かになる

というより、

戦争を避けつつ最低限の要求を処理する

ことでした。

だから通商問題は後回しにされました。

この段階性を見ると、幕府が最初から全面的な開国思想へ転換したのではなく、危機管理として少しずつ門を開いたことが分かります。

なぜ回答を一年延ばすことに意味があったのか

一年は短いように見えます。

しかし軍事・外交の危機では、一年でも大きな意味があります。

砲台を整備する。
諸藩へ警備を命じる。
外国情報を集める。
翻訳を進める。
交渉担当者を準備する。

何も準備せずその場で決断するより、次の来航までに少しでも条件を改善できます。

幕府の対応は、完全な解決ではなく「少しでも不利を減らす」判断でした。

幕府の海軍建設は開国判断と表裏一体だった

外国艦船と戦えないと判断したからこそ、幕府は西洋式海軍を必要としました。

オランダから軍艦を買う。
海軍伝習を受ける。
航海術を学ぶ。
砲術を研究する。

これらは条約締結と矛盾しません。

外交で戦争を避け、その間に軍事力を整える。

幕府の安全保障政策は、この二つを同時に進めるものでした。

「戦わない政府」は必ずしも無策ではない

歴史物語では、戦った人物は分かりやすく英雄化されます。

一方、交渉して戦争を避けた政府は「弱腰」と見られやすい。

しかし国家運営では、戦争を避けること自体が成果になる場合があります。

特に勝算が低く、首都が直接危険にさらされる状況では、交渉による時間確保は重要な選択です。

ただし幕府の対応には限界もあった

幕府の判断を合理的と評価できる部分があっても、国内への説明や政治的合意形成は十分ではありませんでした。

条約問題をめぐって朝廷との対立が深まり、安政の大獄など国内政治も激化します。

外交危機を管理しても、国内政治危機を抑えられなければ政権は安定しません。

ここに幕末幕府の難しさがあります。

「外国と戦うか」ではなく「どう独立を守るか」が本当の問いだった

攘夷派も開国派も、必ずしも日本の独立を軽視していたわけではありません。

違ったのは手段です。

外国を追い払うことで独立を守る。
外国と交渉し、技術を導入して独立を守る。

幕末政治の争いは、この手段をめぐる争いでもありました。

後の薩摩や長州が西洋技術導入へ進んだことを考えると、幕府が直面した問題の難しさがよく分かります。

「弱腰」という言葉だけでは足りない

幕府の判断には失敗も限界もありました。しかし、戦争を避けること、時間を稼ぐこと、軍備と知識を整えることは、危機管理として具体的な意味を持っていました。

よくある疑問

ペリー来航時、幕府は外国情勢を何も知らなかったのか

いいえ。オランダ経由で海外情報を得ており、ペリー来航の予告も受けていました。ただし実際の艦隊が江戸湾に現れた軍事的圧力は非常に大きいものでした。

日米和親条約で自由貿易が始まったのか

本格的な通商は1858年の日米修好通商条約からです。1854年の和親条約では下田・箱館の開港や補給などが中心でした。

幕府は条約を結んだ後、軍備を強化しなかったのか

逆です。軍艦購入、海軍伝習、西洋学術の研究などを進めました。

幕府は攘夷を最初から諦めていたのか

幕府内部にもさまざまな意見がありました。重要なのは、思想上の攘夷と、実際に外国艦隊と戦って勝てる軍事能力は別問題だったことです。

まとめ――幕府は「戦わなかった」のではなく、戦争を避けながら時間を買った

ペリー来航後、幕府が条約を結んだ理由を、

「臆病だったから」

だけで説明することはできません。

欧米艦隊との軍事力の差がある。
江戸湾で戦えば本拠地が危険になる。
中国が欧米に敗れた事例も知っている。
国内の諸藩や朝廷の意見もまとまっていない。
海防と海軍の強化には時間が必要である。

こうした条件がありました。

そこで幕府は、まず国書を受け取り、回答を先延ばしし、翌年に限定的な和親条約を結びます。

その間に軍艦を購入し、西洋式海軍を学び、外国事情を研究しました。

もちろん、その後の不平等条約には大きな問題が残ります。

しかし「攘夷を実行しなかった=何も考えず外国に屈した」ではありません。

むしろ幕府の選択は、軍事的に不利な状況で国家の損害を抑え、近代化の時間を確保しようとした苦しい現実外交だったのです。