「広く会議を興し、万機公論に決すべし」は民主主義なのか

明治維新を象徴する文書の一つが五箇条の御誓文です。明治元年、1868年3月14日に発せられました。国立公文書館は、明治天皇が神々に誓いを立てる形で、新政府の基本方針を示したものと説明しています。

その第一条として有名なのが「広く会議を興し、万機公論に決すべし」です。

現代語で読むと、「広く会議を開き、すべてをみんなの議論で決める」と見えます。すると「明治政府は最初から民主主義国家を作ろうとしていたのではないか」と感じます。

しかし、そのまま現代の国民主権や議会制民主主義と同じ意味だと考えるのは危険です。

まず、誰が誰に誓った文書なのか

五箇条の御誓文は、現代の憲法のように国民が政府権力を制限するために制定した最高法規ではありません。

国立公文書館の説明では、明治天皇が京都御所の南殿で神々を祭り、公卿・諸侯などとともに誓いを立てたものです。

つまり形式としては「政府が全国民へ権利を保障する契約」ではなく、「新政府がこれからどう政治を進めるかを示す基本方針」です。

ここを押さえないと、現代の民主主義宣言と混同しやすくなります。

「公論」とは何だったのか

現代の「世論」や「国民投票」と同じだと考えるのは危険です。

幕末から明治初期の「公議」「公論」は、政治的に重要な人々が会議し、意見を集めて決めるという意味で使われます。

そこに参加するのは最初から全国民全員ではありません。公家、諸侯、藩を代表する者、政府官僚などが中心です。

したがって「万機公論」は、専制的に一人で全部決める政治を避ける理念として重要ですが、現代の一人一票の民主主義とは違います。

それでも「会議で決める」という発想は重要だった

違うからといって意味が小さいわけではありません。

明治新政府が「広く会議を興す」と明示したことは、新しい政治秩序を作る上で重要です。少なくとも、天皇や一部の権力者の個人的判断だけですべて決めることを理想として掲げたわけではありません。

公議所は御誓文をどう具体化したのか

国立公文書館によれば、明治元年12月に公議所を東京へ設置することが発せられ、翌年に開設されました。

公議所は「広く会議を興し万機公論に決すべし」という御誓文の趣旨を具体化しようとしたものと説明されています。

各藩から一名ずつ公議人を出す。公議人は議案を建言できる。会議を開く。

ここだけ見ると議会らしく見えます。

しかし公議所は国民選挙の議会ではない

現代の国会とは大きく違います。

公議人は全国民の普通選挙で選ばれたわけではありません。各藩から出される代表です。当時はまだ廃藩置県前で、藩が政治単位として残っています。

つまり公議所は「国民代表議会」というより「諸藩代表を集めた合議機関」に近いものでした。

明治政府は最初から完成した制度を持っていなかった

維新直後の政府は、制度を次々と作り変えています。太政官制度、公議所、集議院、地方官会議、元老院、国会。

一気に現在の議会制度ができたわけではありません。

五箇条の御誓文は、その長い制度形成の出発点の一つと考える方が分かりやすいでしょう。

なぜ新政府は「公論」を必要としたのか

明治新政府は、薩摩・長州だけの政府に見える危険がありました。幕府を倒した後、日本全国を統治するには、他藩や公家など幅広い政治勢力をまとめる必要があります。

そこで「新政府は一部の藩が勝手に全部決めるのではない」と示すことには政治的意味がありました。

公論という理念は、新政府の正統性を広げる役割も果たします。

「民主主義」という言葉をそのまま当てはめる危険

民主主義にはさまざまな意味があります。選挙、国民主権、言論の自由、議会政治、多数決、基本的人権。

五箇条の御誓文に、これらすべてが具体的に定められているわけではありません。特に「国民が主権者である」という現代日本国憲法の考えを、そのまま1868年へ持ち込むことはできません。

では、御誓文は非民主的な文書なのか

これも極端です。

「現代の民主主義そのものではない」ことと、「民主主義と無関係」であることは違います。

会議、公論、旧来の悪習を破る、知識を世界に求める。こうした理念は、その後の政治改革を進める根拠として利用されました。

後の自由民権運動との関係

国立国会図書館は、1875年の立憲政体樹立の詔について、五箇条の御誓文とともに民権運動の国会開設要求の拠り所となったと説明しています。

これは重要です。

御誓文自体が普通選挙を約束したわけではありません。しかし後の人々は「政府自身が公論を掲げたではないか」と政治参加要求の根拠に使うことができました。

文書の意味は、発表時点だけでなく、後世どう利用されたかでも広がります。

木戸孝允らが目指した「公議」の意味

維新指導者の中には、諸藩や有力者の意見を集める政治制度を重視する人物がいました。木戸孝允もその一人として、明治政府の制度形成に関わります。

ただし彼らが想定した政治参加は、現代の全国民参加とは違います。当時の社会条件の中で、どこまで政治参加を広げるかという段階的な発想でした。

「万機公論」と政府の現実には差があった

理念を掲げることと、実際の政治が完全にその理念通りになることは別です。

明治政府では、薩摩・長州など特定藩出身者が強い影響力を持ちました。重要政策が政府中枢で決まることも多くあります。

だから「御誓文に公論と書いてあるから、明治政府は完全に民主的だった」とは言えません。

理念と現実の差を見ることが必要です。

なぜ理想と現実が違っても御誓文は重要なのか

政治文書の役割は、現実をその瞬間に完全実現することだけではありません。「政府はこの方向へ進む」という基準を示します。

その後、政府が基準から外れれば、「最初の約束と違う」と批判する根拠にもなります。

五箇条の御誓文は、まさにそうした政治的基準として長く使われました。

「広く」という言葉の範囲は時代によって変わる

現代の私たちは「広く意見を聞く」と聞けば、全国民を想像します。しかし1868年の政治社会では、政治参加の前提そのものが違います。

誰が政治主体なのか。誰が代表になれるのか。誰が議論へ参加できるのか。

これらの範囲は限定されていました。

それでも従来より広い層から意見を集めようとする方向性があったことは重要です。

歴史では「現代基準では不十分」と「当時として変化があった」を同時に見る必要があります。

御誓文は政治的な「空白」を埋める役割も持った

幕府が消え、新政府ができたばかりの時期、日本には完成した新憲法も国会もありません。

何を基準に政治を進めるのか。その方向性を示す必要がありました。

五箇条の御誓文は、具体的な制度設計図ではありませんが、新政府がどんな価値を掲げるかを示しました。

だから後に政治制度が変化しても、御誓文は「原点」として参照され続けることになります。

公議所の短い存在期間が示すこと

公議所は長期間安定して続いた国会ではありません。国立公文書館の解説では、明治2年3月から6月まで22回会議を開いた後、7月に集議院と改称されました。

これは、明治政府が制度を試行錯誤していたことを示しています。

「御誓文を出したから制度が完成した」のではなく、その理念をどう具体化するかを模索していました。

五箇条すべてを見ると「民主主義宣言」だけではない

五箇条の御誓文は、会議だけを述べた文書ではありません。上下が心を一つにすること、官民が志を遂げること、旧来の悪習を破ること、知識を世界に求めることなど、新政府の国家建設全般に関する方向性があります。

だから第一条だけを取り出して「日本最初の民主主義宣言」と断定するより、「新政府が合議と公論を重要理念の一つとして掲げた文書」と見る方が正確です。

「民主主義」という現代語に翻訳しすぎない

歴史を分かりやすくするために現代語を使うことは便利です。しかし便利な言葉ほど危険があります。

「民主主義」と言えば、現代人はすぐに選挙や国会を思い浮かべます。すると1868年の政治制度まで現代と同じに見えてしまいます。

歴史用語は、その時代の制度の中で理解する必要があります。

「民主主義宣言」と呼びたくなる理由

五箇条の御誓文を現代人が民主主義的だと感じるのは当然です。第一条の言葉が、独断より会議を重んじるように読めるからです。さらに後の立憲政治や国会開設と結びつけて学ぶため、一本の直線的な発展に見えやすくなります。

しかし歴史は、最初から完成形を目指して一直線に進んだわけではありません。1868年の政府が想定した「公論」と、1890年の帝国議会、さらに現代の国会は制度も参加範囲も違います。

重要なのは、似た言葉を使っていても制度の中身が同じとは限らないことです。

「会議」があれば民主主義なのか

会議は民主主義の重要な要素ですが、会議が存在するだけで民主主義になるわけではありません。

誰が参加できるのか。
誰が議員を選ぶのか。
議論の結果に政府が拘束されるのか。
反対意見を公然と言えるのか。

これらが重要です。

公議所には議会的性格がありましたが、全国民が議員を選ぶ制度ではありませんでした。したがって「会議がある=現代型民主主義」とは言えません。

明治政府にとって「広く意見を聞く」ことは統治技術でもあった

新政府は、まだ全国へ完全な統治力を持っていたわけではありません。旧幕府勢力も残り、多くの藩が存在します。

その状況で一部の勢力だけが政策を決めれば、反発が強くなります。

各藩から代表を集めて意見を聞くことは、理念だけでなく統治を安定させる技術でもありました。

公論は、正統性を作るための政治手段でもあったのです。

御誓文は「権利章典」ではない

現代の民主主義を考えるとき、人権保障が重要です。言論の自由、信教の自由、選挙権などが制度として保障されます。

五箇条の御誓文は、そのような個人の権利を列挙した文書ではありません。

政府の基本方針を示す性格が中心です。

そのため、御誓文に公論の理念があることと、国民一人ひとりに現代的な政治的権利が保障されていたことは別です。

「旧来の陋習を破る」と公論政治

五箇条の御誓文には、旧来の悪習を破り、天地の公道に基づくという趣旨もあります。

これは新政府が、江戸時代の制度をそのまま維持するのではなく、必要なら変える姿勢を示したものと理解できます。

公論の理念も、この改革姿勢と結びついています。

ただし何を「旧来の悪習」とみなすかを全国民が決めたわけではありません。実際の政策決定権は政府にありました。

「知識を世界に求める」と政治制度改革

御誓文は、知識を世界に求めることも掲げました。

この姿勢は、その後の海外視察や制度導入につながる方向性を持ちます。

議会制度についても、日本は西洋諸国の制度を研究しながら独自の制度を作っていきました。

つまり五箇条の御誓文は、政治参加だけでなく、国家制度全体を学習し変化させる方針を示す文書でもあります。

後世の人々が御誓文を「利用」した意味

文書は、作成者の意図だけで意味が固定されるわけではありません。後の時代の人々が、そこからどんな原則を読み取り、政治要求の根拠として使うかでも意味が変わります。

自由民権運動の人々が「公論」という理念を参照したことは、御誓文が政府だけの文書ではなく、政府を批判する側にも使える政治原則になったことを示します。

この点では、五箇条の御誓文は後の議会政治に重要な象徴的役割を果たしました。

「最初から民主国家だった」と考えると何を見落とすか

もし1868年から日本が完成した民主主義国家だったと考えると、その後の自由民権運動や国会開設運動の意味が分からなくなります。

なぜ国会を求める運動が起きたのか。
なぜ参政権の範囲が争点になったのか。
なぜ憲法制定まで時間がかかったのか。

これらは、御誓文だけでは現代的民主制度が完成していなかったからです。

逆に「ただの飾り文句」と考えるのも違う

理念と現実に差があるからといって、御誓文を意味のない宣伝文書と片づけるのも適切ではありません。

新政府が公論を掲げたことは、その後の制度改革や政治批判に利用できる基準を作りました。

政府が理念を掲げれば、後の人々はその理念を政府自身に突き返すことができます。

この点で、政治理念には現実を少しずつ変える力があります。

1868年の言葉を1868年の制度で読む

歴史文書を読むとき最も重要なのは、現代の価値観だけで意味を決めないことです。五箇条の御誓文は、現代の民主主義国家から見れば不十分です。しかし幕府が終わった直後に、新政府が公論と会議を基本方針として掲げたこと自体には歴史的な意味があります。現代と同じか違うかだけではなく、その時代の中で何が新しかったのかを見る必要があります。

よくある疑問

五箇条の御誓文は憲法なのか

現代の憲法とは異なります。新政府の基本方針を示す文書です。

「万機公論」とは全国民の投票で決める意味か

いいえ。そのような具体的制度を定めたものではありません。

公議所は国会だったのか

議会的要素はありますが、普通選挙で選ばれた国民代表議会ではありません。各藩から代表を出す制度でした。

御誓文は後の議会政治に影響したのか

後の立憲政治や自由民権運動の中で、公論を求める根拠の一つとして参照されました。

この視点を持つと、御誓文は現代民主主義の完成形ではなく、後の政治参加拡大につながる出発点として位置づけやすくなります。

そして、その後の政治運動がこの言葉を再解釈したことまで含めて見る必要があります。

この差が歴史理解の鍵になります。

まとめ――五箇条の御誓文は「民主主義そのもの」ではないが、公論政治の重要な出発点だった

五箇条の御誓文の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という理念は、日本政治史で重要です。

しかし1868年に、全国民が選挙で代表を選ぶ、国民主権を確立する、現代型議会制民主主義を作る、と宣言した文書ではありません。

当時の「公議」は、諸藩や有力政治層の意見を広く集めるという性格が強く、公議所も全国民選挙の議会ではありませんでした。

それでも、新政府が一人や一部勢力の独断ではなく、会議と公論を政治理念として掲げた意味は大きい。

さらに後世、自由民権運動や立憲政治を求める人々が、その理念を自分たちの要求の根拠にしていきました。

だから五箇条の御誓文は、「完成した民主主義宣言」ではなく、「後の議会政治へつながり得る公論の原則を掲げた国家方針」として理解すると、その歴史的位置が最も見えやすくなります。

そのため、御誓文は当時の制度と後世の再解釈を分けて読むことで、最も正確に位置づけることができます。