「外国人を追い払え」と言いながら、外国へ学びに行くのは矛盾ではないか
幕末の長州藩といえば、強い攘夷運動で知られています。外国船を追い払う。外国勢力に屈しない。朝廷を中心に攘夷を実行する。こうした主張を強く掲げた藩でした。
ところが1863年、長州藩は5人の若い藩士を密かにイギリスへ送り出します。のちに「長州ファイブ」と呼ばれる人々です。
伊藤博文。井上馨。井上勝。山尾庸三。遠藤謹助。
萩市は、この5人が1863年に国禁を破って密航し、ロンドン大学に留学したと紹介しています。
ここで素朴な疑問が生まれます。外国を排除する攘夷を唱えているのに、なぜその外国へ留学するのでしょうか。一見すると完全な矛盾です。
しかしこの矛盾を考えると、幕末の「攘夷」が単なる外国嫌いではなかったことが見えてきます。
攘夷とは「西洋のものを全部拒否すること」だったのか
現代語で「攘夷」を見ると、「外国人を追い出せ」という排外主義だけを想像しやすくなります。実際、幕末には外国人への襲撃事件も起きました。
しかし政治運動としての攘夷には、「外国の圧力に屈しない国にする」という意味もありました。
外国に負けないためには、外国の力を知らなければならない。外国の軍事技術が優れているなら、それを学ばなければならない。この考え方に進むと、「攘夷」と「西洋学習」は必ずしも完全な反対ではなくなります。
長州藩は外国と実際に戦った
長州藩は攘夷を言葉だけで唱えていたわけではありません。関門海峡を通る外国船に砲撃するなど、実際の軍事行動に踏み切ります。
しかし外国艦隊の軍事力は強大でした。西洋式の艦船。大砲。航海技術。軍事組織。日本側が精神論だけで勝てる相手ではないことが現実の戦闘で分かってきます。
「攘夷を実行するために戦った結果、西洋の強さを思い知らされる」という皮肉な状況が起きたのです。
だからこそ西洋を知る必要があった
敵が強い。ならば、その強さの理由を知らなければならない。
どんな船を作っているのか。どんな工場があるのか。どんな教育をしているのか。どんな政治制度なのか。なぜこれほど軍事力があるのか。
こうした疑問に答えるには、日本国内で伝聞を集めるだけでは足りません。実際にイギリスへ行き、社会を見て学ぶ必要があります。
長州ファイブの留学は、その意味で非常に合理的でした。
なぜ堂々と留学せず「密航」だったのか
当時は自由に海外留学できる時代ではありません。萩市の説明でも、5人は国禁を破って密航したとされています。
つまり、「西洋から学ぶ必要がある」と考えても、幕府の制度上は簡単に実行できませんでした。だから危険を承知で秘密裏に出国します。
現在の留学とはまったく違います。失敗すれば処罰される可能性があります。それでも行く価値があると判断したのです。
長州ファイブは観光旅行に行ったわけではない
5人の目的は、西洋文明を実際に学ぶことでした。萩市立図書館は、5人がロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで近代技術を学んだと紹介しています。
帰国後の進路を見ると、目的がよく分かります。
伊藤博文は政治。井上馨は外交・財政。井上勝は鉄道。山尾庸三は工学。遠藤謹助は造幣。
明治日本の国家建設に必要となる分野へ進みました。つまり彼らが学ぼうとしたのは、単なる英語や西洋文化ではありません。「西洋国家がなぜ強いのか」を作っている制度や技術でした。
敵を倒すために敵から学ぶ
これは歴史上よくあることです。強い相手に勝ちたいなら、相手の技術を研究する。軍隊を強くしたいなら、強い軍隊の制度を学ぶ。産業を発展させたいなら、先進国の工業技術を導入する。
長州藩も同じです。
西洋に屈したくないからこそ、西洋から学ぶ。一見矛盾していますが、国家競争の論理ではむしろ自然です。
「外国文化が嫌い」ではなく「外国に支配されたくない」
ここを分けると、攘夷思想が理解しやすくなります。
外国の文化や技術を一切拒否すること。外国から政治的・軍事的に支配されないこと。
この二つは同じではありません。
長州の一部指導者は後者を強く意識するようになります。外国の技術を導入してでも、自国の独立を守る。この考え方は、のちの富国強兵にもつながっていきます。
留学生自身も考えを変えた
海外へ行くと、想像していた西洋と現実の西洋の差に気づきます。強大な工業力。都市。鉄道。造船。教育機関。
こうしたものを直接見ることで、「攘夷を唱えるだけでは勝てない」と理解するようになります。
外国を拒絶するのではなく、外国から技術を吸収して日本を強くする必要がある。長州ファイブの経験は、幕末の思想転換を象徴しています。
伊藤博文と井上馨は途中で帰国した
萩市立図書館の紹介では、伊藤と井上馨は1864年、四国連合艦隊による下関攻撃の避戦交渉のため帰国しています。
ここは非常に象徴的です。
攘夷を実行して外国船を攻撃した長州藩に対し、イギリスなどが報復しようとする。その危険を理解した海外留学生が帰国し、戦争回避に動く。
つまり留学によって「西洋の力」を知った人物が、長州の攘夷政策を現実的な方向へ修正する役割を果たしたのです。
これは「攘夷を裏切った」のか
立場によってはそう見えたでしょう。徹底攘夷を信じる人物からすれば、「外国と戦うべきなのに、なぜ妥協するのか」となります。
しかし伊藤や井上の立場からすれば、勝てない戦争を続けて国や藩を破壊することは意味がありません。
目的が「外国に支配されないこと」なら、戦い方を変える必要があります。ここで攘夷の手段が、「外国を追い払う」から、「外国に負けない国家を作る」へ変わっていきます。
長州藩全体が最初から同じ考えだったわけではない
長州藩を一枚岩として考えると誤解します。藩内にはさまざまな立場の人がいました。
急進的な攘夷派。慎重派。幕府との協調を重視する人。海外技術を学ぶ必要があると考える人。
政治情勢によって主導権も変化します。
長州ファイブの留学は、「長州藩全員が最初から開国派だった」ことを意味しません。むしろ藩の中に、攘夷を主張しながらも西洋を学ぶ必要性を理解する人々がいたことを示します。
木戸孝允らの世代も現実路線へ変化した
長州藩の指導層は、その後大きく変化します。
幕府との戦争。外国艦隊との戦い。薩長同盟。倒幕。明治政府参加。
こうした経験を通じ、単純な攘夷政策から現実的な近代化へ進みます。木戸孝允も明治政府で近代国家建設に関わります。
「外国を排除する長州」から「西洋制度を取り入れる明治政府」への変化は、突然の裏切りではなく、幕末の失敗と学習の積み重ねでした。
なぜイギリスだったのか
19世紀のイギリスは世界最大級の工業・海運・金融力を持つ国でした。鉄道。造船。機械工業。海外貿易。
日本が近代国家として強くなるために学ぶ対象として、非常に重要な国です。ロンドンで実際の工業社会を見ることは、日本国内の蘭学書だけでは得られない経験でした。
長州ファイブのその後が「留学の意味」を示している
5人が帰国後に関わった分野を見ると、留学が個人的な教養のためではなかったことが分かります。
鉄道を作る。工学教育を整える。造幣制度を運営する。外交・政治を担う。
これらは近代国家の基盤です。
攘夷運動の藩から送り出された若者が、後に西洋制度を使って日本を近代化する。ここに幕末から明治への大転換が凝縮されています。
「攘夷=反西洋」と考えると歴史が分からなくなる
幕末史の面白いところは、人々の思想が固定されていないことです。
最初は外国を追い払うべきだと考える。戦ってみる。負ける。相手の強さを知る。学ばなければならないと考える。制度を導入する。
こうして思想が変わります。
現代から見ると「昔と言っていることが違う」と批判したくなりますが、現実の経験によって政策を変えること自体は不自然ではありません。
「敵を知る」という発想は長州だけのものではなかった
幕末の日本では、薩摩や幕府なども西洋式軍事技術、造船、語学を学んでいました。外国の圧力を受けた各勢力が、外国を警戒しながら同時に学ぼうとしています。
これは幕末日本全体の特徴です。
西洋の脅威を強く感じるほど、西洋研究の必要も大きくなる。だから「外国を警戒する勢力ほど外国技術を学ぶ」という、一見逆説的な動きが起きました。
留学は思想転換の実験でもあった
書物で読んだ西洋と、現地で見る西洋は違います。
工場の規模。鉄道の速度。都市インフラ。教育。金融。議会。
こうした現実を直接見ると、「日本が何を変えなければならないか」が具体的になります。
長州ファイブは単なる知識の輸入者ではなく、日本人が西洋社会を直接観察し、近代化の必要性を体験として持ち帰った初期の事例として重要です。
攘夷はなぜ「強い言葉」になったのか
幕末の日本人にとって、外国勢力は抽象的な存在ではありませんでした。開港地には外国人が現れ、外国船が沿岸を行き来し、条約によって関税や外交のルールが変わります。中国が列強に圧迫される状況も知られていました。
そのため「このままでは日本も外国に支配されるのではないか」という恐怖が広がります。攘夷という言葉は、その恐怖に対する強い反応でした。
しかし恐怖が強いほど、現実にどう対抗するかという問題も避けられません。刀や旧式砲だけで近代艦隊に勝てないなら、技術や制度を学ぶ必要があります。
長州ファイブの留学は、感情的な攘夷から、現実的な国家防衛へ思考を切り替えるための一歩でもありました。
「思想を変えた」のではなく「目的と手段を分けた」と考える
長州の一部指導者が西洋学習へ向かったことを、単純に「攘夷を捨てた」と表現することもできます。
しかしより正確には、目的と手段を分けたと考える方が分かりやすいでしょう。
目的は、日本の独立を守ること。
当初の手段は、外国船を追い払うこと。
その手段が現実に通用しないと分かると、軍事技術や産業、制度を学んで国力を高める方向へ移る。
目的そのものが完全に逆転したというより、目的を実現する方法が変化したのです。
なぜ若者を送り出したのか
新しい技術や制度を学ぶには、柔軟に吸収できる人材が必要です。若い藩士を海外へ送ることには、単なる視察以上の意味がありました。
数年後、十数年後に藩や国家を支える人材を育てる。
つまり留学は、短期的な軍事対策だけでなく、長期的な人材投資でもありました。
長州ファイブの帰国後の活躍を見ると、この投資は明治国家形成の中で大きな意味を持ったことが分かります。
「外国から学ぶこと」と「外国に従うこと」は同じではない
幕末の議論では、この二つが混同されやすくなりました。
外国技術を導入する。
外国語を学ぶ。
外国へ留学する。
だからといって、外国の政治的支配を受け入れることにはなりません。
むしろ、外国に従属しないために外国の知識を吸収するという発想がありました。
これは明治政府が後に進める近代化政策にも通じます。
長州ファイブは「幕末の矛盾」を体現している
幕末は、古い価値観と新しい現実が激しくぶつかった時代です。
尊王攘夷を叫びながら西洋銃を使う。
外国を警戒しながら外国語を学ぶ。
幕府を批判しながら幕府が整えた近代制度を利用する。
これらは一見矛盾しています。
しかし、社会が大きく変わる時代には、古い理念を持つ人々が新しい手段を使うことがあります。
長州ファイブの留学は、その典型例です。
帰国後に「西洋化だけ」を進めたわけではない
明治政府の近代化は、西洋制度をそのままコピーするだけではありませんでした。日本の政治・社会条件に合わせて制度を選び、修正しながら導入します。
長州ファイブの人々も、それぞれの分野で海外知識を日本へ移しましたが、単純な模倣者ではありません。
海外経験を持つ人材が重要だったのは、外国制度を知っているだけでなく、日本との違いを比較できたからです。
この比較能力こそ、密航留学の大きな成果でした。
幕末の「矛盾」は学習の痕跡でもある
後から見ると、攘夷から西洋学習への転換は一貫性がないように見えます。しかし政策が変化するのは、現実に直面して学習した結果でもあります。長州藩は外国艦隊との衝突を通じて、自分たちの軍事力の限界を具体的に知りました。
その経験がなければ、西洋技術を導入する必要性も、海外へ人材を送る意味も、これほど切迫したものにはならなかったでしょう。
歴史上の人物や集団を評価するとき、「最初から正しい考えを持っていたか」だけを見ると、変化の意味を見失います。重要なのは、失敗や敗北から何を学び、その後の行動をどう変えたかです。
長州ファイブの留学は、まさにその学習過程を目に見える形で示す出来事でした。
現代から見るときの注意
攘夷派を単純な「反外国勢力」と決めつけると、彼らが同時に西洋知識を求めた理由が理解できません。逆に、西洋技術を学んだから最初から開国派だった、と考えるのも正確ではありません。長州の人々は、危機の中で立場を変えながら行動しました。その変化自体が幕末史の重要な部分です。
よくある疑問
長州ファイブは誰か
伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助の5人です。
本当に密航だったのか
萩市は、1863年に国禁を破って密航したと説明しています。
5人ともすぐ帰国したのか
いいえ。伊藤と井上馨は1864年に帰国し、他の3人はその後それぞれ異なる時期に帰国しました。
長州藩は攘夷をやめたのか
一度に全員が考えを変えたわけではありません。しかし外国との戦争経験や留学生の知識などを通じ、現実的な西洋技術導入へ大きく転換していきます。
長州ファイブの物語は、思想の一貫性よりも、現実を見て学び直す力が歴史を動かしたことを示しています。
この視点で見ると、攘夷と留学は対立ではなく連続した選択でした。
まとめ――攘夷と留学は、実は同じ危機感から生まれていた
長州藩が攘夷を唱えながらイギリスへ留学生を送ったことは、一見すると大きな矛盾です。
しかし両方の根にあるのは、「日本が外国に支配されてはいけない」という危機感でした。
外国を追い払おうとするのも、そのため。外国の強さを学ぼうとするのも、そのため。違うのは手段です。
実際に外国と戦い、その強さを知ることで、長州の一部指導者は考えを変えました。敵を知らずに拒絶するのではなく、敵から学び、自分たちを強くする。
長州ファイブの密航留学は、幕末の日本が「攘夷」から「近代化」へ進む転換そのものを象徴しています。
だからこの出来事は、矛盾ではなく、危機に直面した人々が現実から学び、戦略を変えた歴史として見ると理解しやすいのです。
この転換こそが、長州の経験を単なる攘夷運動ではなく、近代化へ向かう学習の歴史として見るべき理由です。
