「外国を追い払え」と言いながら外国製の銃を買う不思議
幕末史には、現代人から見ると非常に奇妙な場面があります。
外国を追い払う「攘夷」を強く唱えた長州藩などが、その一方で西洋式の銃や大砲、軍艦を求めています。
外国の力を否定するなら、外国製兵器を使うのはおかしいのではないか。日本古来の武器だけで戦うべきではないか。
この疑問はもっともです。
しかし当時の攘夷は、必ずしも「西洋の技術を一切使わない」という思想ではありませんでした。むしろ「外国の侵略を防ぐためには、外国の優れた軍事技術を取り入れなければならない」と考える人々が多くいました。
敵の技術を学び、その技術で敵に対抗する。これは矛盾というより、幕末の海防思想では非常に現実的な発想でした。
黒船以前から「西洋の武器を学ばなければ危ない」と考えられていた
ペリー来航以前にも、日本には西洋軍事力への警戒がありました。
ロシア船やイギリス船などが日本近海に現れ、外国船への対応が問題になります。さらに中国がアヘン戦争でイギリスに敗れたことは、日本の知識人に大きな衝撃を与えました。
中国は日本よりはるかに大きな国です。その中国が西洋の軍事力に敗れた。「日本も同じ目に遭うのではないか」という危機感が強まります。
そこで砲術、軍艦、海防の研究が進みました。
佐久間象山は海防のために西洋技術を研究した
佐久間象山はその代表的な人物です。
国立国会図書館によれば、象山は藩主真田幸貫から海外事情の研究を命じられ、「海防八策」を上書しました。
「海防」とは文字通り海から来る外国勢力への備えです。外国を警戒するからこそ、外国の軍事事情を調べる。この発想は重要です。
現代でも、ある国を安全保障上の競争相手と考えたからといって、その国の軍事技術を研究しないわけではありません。むしろ相手が強いほど研究します。
幕末の洋学や洋式軍事技術の導入も、それと似た面がありました。
刀と火縄銃だけでは蒸気船に対抗できない
幕末の外国艦隊は、蒸気機関で動く軍艦や高性能の大砲を備えていました。
一方、日本の軍事制度の多くは江戸時代の長い平和の中で形成されています。
武士個人の剣術がどれほど優れていても、海上から砲撃する軍艦には届きません。槍の達人でも、射程の長い大砲には対抗できません。
ここで「武士の精神があれば勝てる」と考えるだけでは、国家を守れません。幕末の指導者たちは、実際の軍事力の差を目の前で知ることになります。
長州の攘夷実行は「理想を現実にぶつけた実験」だった
長州藩は尊王攘夷運動の中心となり、下関海峡を通過する外国船を砲撃しました。まさに「攘夷」を実行したのです。
しかし欧米諸国は反撃します。西洋艦隊の火力と運用能力を前に、長州は大きな打撃を受けます。
この経験から得られる教訓は明確でした。
「攘夷をしたいなら、まず強くならなければならない」
ということです。
精神論だけでなく、兵器、訓練、組織、補給、艦船が必要です。
外国に負けたから「外国は正しい」と考えたわけではない
ここを誤解すると、幕末の変化が単純になります。
長州が外国艦隊に敗れたからといって、「外国の言うことは全部正しい。これから従おう」となったわけではありません。
むしろ、「このままの日本では外国に対抗できない。だから外国から学ばなければならない」という方向へ進みます。
つまり敗北は、屈服より改革を促したのです。
西洋銃は「思想」ではなく「道具」だった
銃そのものに思想はありません。
西洋で作られた銃を持ったからといって、西洋の政治や宗教や文化をすべて受け入れたことにはなりません。
幕末の武士にとって、性能の高い銃は軍事的な道具です。敵対する相手の武器でも、強ければ使う。そこに必ずしも思想的矛盾はありません。
むしろ「日本を守る」という目的を優先すれば、強い武器を導入する方が合理的です。
軍制そのものも西洋式へ変わっていった
重要なのは、単に新しい銃を買っただけではないことです。
銃の性能が変われば、戦い方も変わります。個人の武勇より、集団での射撃。身分より訓練。陣形。指揮命令系統。補給。
こうした軍制全体の改革が必要になります。
長州では奇兵隊など、従来の武士身分だけに限定されない部隊も登場します。
この変化は、のちの明治政府による徴兵制にもつながる大きな転換でした。
薩摩も薩英戦争で同じ現実を知った
薩摩藩もイギリスとの薩英戦争を経験します。
薩摩は強い藩でしたが、世界有数の海軍力を持つイギリスとの戦闘によって、近代軍事力の現実を理解します。
その後、薩摩はイギリスとの関係を深め、西洋の軍事技術や産業技術を積極的に取り入れていきます。
ここにも、「戦った相手から学ぶ」という幕末独特の現実主義があります。
なぜ敵国が技術を教えたり武器を売ったりしたのか
もう一つ不思議なのは、西洋諸国の側です。
日本側が攘夷を唱えているのに、なぜ外国商人は武器を売るのでしょうか。
国際政治と商業の世界では、国家と商人の利益が完全に同じとは限りません。武器取引は利益になります。またイギリス、フランス、アメリカなどの列強同士にも競争があります。
日本国内のどの勢力と関係を深めるかは、各国にとって外交上の意味を持ちます。幕末日本は国内政治だけでなく、外国勢力の利害も絡む複雑な市場になっていました。
薩摩と長州が西洋兵器を必要としたことは薩長接近にも関係した
幕末の薩長関係では、武器や物資の調達も重要でした。
長州藩は幕府から警戒されており、自由な武器調達が難しい状況にあります。一方、薩摩は外国との交易関係を持ち、長崎などを通じて西洋兵器にアクセスできます。
こうした実務的な事情が、政治的に敵対していた薩摩と長州を接近させる一因にもなりました。
思想だけでなく、「誰が銃を買えるのか」「誰が船を使えるのか」という現実の問題が政治を動かしていたのです。
攘夷の意味が変わっていった
最初の攘夷は、「外国船を追い払う」という非常に直接的な意味を持ちました。
しかし西洋の力を知ると、その実現が難しいことが分かります。
そこで発想は、「外国に支配されない国をつくる」という方向へ変わっていきます。
この段階になると、西洋兵器や軍制の導入は矛盾しません。
外国に対抗するために外国の技術を使う。これは近代化の大きな原動力になりました。
西洋兵器を買うには経済力も必要だった
高性能な銃や軍艦は、欲しいと言えば手に入るものではありません。
大量の資金が必要です。外国商人との信用も必要です。港、倉庫、輸送路も必要になります。
そのため幕末の軍事改革は、経済政策と強く結びついていました。
薩摩が産業育成を進め、長州も藩財政や交易を重視した背景には、政治と軍事を支える資金の問題があります。
強い兵器を持つには、強い経済が必要です。この認識は明治政府の「富国強兵」政策にもつながっていきます。
技術導入は身分秩序も揺さぶった
洋式軍隊では、刀の腕前や家柄だけでは勝てません。
射撃訓練、隊列行動、砲兵技術など、学習によって身につく能力が重要になります。
すると「先祖代々の武士だから強い」という考え方が揺らぎます。
農民や町人出身でも、訓練すれば銃兵になれます。奇兵隊などの新しい部隊が持った意味は、兵器だけでなく人材登用の考え方にもありました。
西洋兵器は、江戸時代の身分秩序を軍事面から崩す力も持っていたのです。
幕府も同じように西洋技術を取り入れていた
西洋式軍事技術を導入したのは薩摩や長州だけではありません。
幕府も海軍、陸軍、造船、洋学教育を進めました。
そのため幕末の戦争は、「古い幕府の日本式軍隊」と「新しい倒幕派の西洋式軍隊」という単純な対決ではありません。
双方が外国から技術を学び、武器を輸入し、近代化を競っていました。
明治維新は、すでに各勢力が始めていた軍事近代化を、新政府が全国規模に統合する過程でもありました。
武器を変えることは社会そのものを変えた
西洋銃の導入は軍事だけの話ではありません。
高性能な銃を大量運用するには、同じ規格の弾薬を用意しなければなりません。兵士を同じように訓練する必要があります。武器を購入・製造する資金も必要です。工場、輸送、通信も重要になります。
つまり軍事近代化は、産業、財政、教育、行政の近代化とつながります。
「西洋銃を買う」という一つの選択が、国家全体の改革を要求するのです。
よくある疑問
攘夷派は西洋文化を全部嫌っていたのか
人によります。外国への強い反感を持つ人もいましたが、西洋の兵学や技術を学びながら攘夷を論じる人物もいました。
外国製の銃を使ったら攘夷ではなくなるのか
必ずしもそうではありません。攘夷を「外国の政治的・軍事的圧力を排除すること」と考えれば、そのために外国技術を利用することは両立します。
長州は外国との戦争に負けてすぐ開国派になったのか
一気に全員の思想が変わったわけではありません。しかし軍事力の差を実感したことは、現実的な政策転換を促す大きな要因になりました。
薩摩とイギリスは戦ったのに、なぜ後に関係が良くなったのか
戦闘によって互いの力を知ったことに加え、その後の外交・交易で双方に利益があったためです。敵対と交流は必ずしも一直線ではありません。
まとめ――「西洋を拒むために西洋を学ぶ」は幕末の現実主義だった
攘夷派が西洋銃や軍艦を使うことは、表面だけを見れば矛盾しています。
しかし当時の目的を考えると、意味が変わります。
彼らが恐れたのは、日本が外国に軍事的・政治的に支配されることでした。そのため外国を排斥しようとしました。
しかし実際に外国と戦うと、軍事力の差は明白でした。
そこで、外国に対抗するために外国の武器を使う。外国に支配されないために外国の制度を学ぶ、という発想が生まれます。
これは「外国が好きになった」という単純な変化ではありません。むしろ危機感が強かったからこそ、相手の強さを学びました。
幕末の近代化は、外国への憧れだけから始まったのではありません。「このままでは負ける」という恐怖と、「負けない国をつくらなければならない」という焦りが、大きな原動力だったのです。
「武器だけ近代化すればよい」では済まなかった理由
西洋式の銃や大砲を導入すると、すぐに別の問題が出てきます。
たとえば銃を大量にそろえても、弾薬の規格がばらばらなら補給できません。大砲を持っても、砲兵が測距や照準を理解していなければ性能を発揮できません。軍艦を買っても、航海術、機関の整備、造船、港湾設備がなければ長期運用できません。
つまり兵器だけを輸入しても意味がありません。
教育、工業、財政、輸送、通信、指揮制度まで変える必要があります。
このため幕末の軍事近代化は、やがて国家全体の近代化へつながります。
「強い銃が欲しい」という要求から始まっても、その銃を使い続けるためには工場が必要になり、技術者が必要になり、学校が必要になり、税制が必要になるのです。
外国語と翻訳も「軍事力」だった
西洋技術を導入するには、外国語を読める人材も必要でした。
武器の説明書、航海術、砲術、医学、機械工学。多くの知識は外国語で書かれています。
そのため洋学者や通訳の価値が高まります。
刀の腕前が高い武士だけでなく、語学や数学、技術を理解する人が軍事改革に不可欠になります。
ここでも、武士社会の価値基準が変わります。
「勇敢に戦えるか」だけでなく、「新しい知識を学べるか」が国家の強さに直結するようになったのです。
西洋兵器の導入は、幕府と倒幕派の両方を変えた
幕末の近代化は、倒幕派だけの専売特許ではありません。
幕府もフランスなどから軍事技術を学び、洋式陸軍や海軍の整備を進めました。
このため戊辰戦争前後の日本では、旧幕府側にも近代的な武器や訓練を受けた部隊が存在します。
つまり「西洋兵器を使った側が近代的で、刀を使った側が古い」という単純な図式ではありません。
幕府も薩摩も長州も、それぞれの立場で近代軍事力を求めていました。
違ったのは、どの政治体制のもとでその軍事力を使うかという点です。
攘夷の敗北が「富国強兵」の発想を生んだ
外国艦隊との戦争で、武器の差だけではなく経済力の差も見せつけられました。
強い海軍を維持するには造船所が必要です。大砲を作るには工場が必要です。軍隊を動かすには大量の税収が必要です。
そこで明治政府では、軍事力だけでなく産業や財政を強くすることが重視されます。
「富国強兵」という言葉が象徴するように、国を富ませることと軍を強くすることは一体でした。
幕末の攘夷派が西洋兵器を求めた経験は、単なる武器購入で終わらず、近代国家そのものを作り替える発想へ発展していきます。
だからこそ「矛盾」に見える行動が歴史を動かした
もし攘夷派が「外国のものは絶対に使わない」という態度を貫いていたら、日本の軍事近代化は大きく遅れたでしょう。
逆に、外国の技術を無条件に受け入れるだけなら、日本独自の政治的判断は失われたかもしれません。
実際には、外国を警戒しながら外国から学ぶという複雑な態度が取られました。
この一見矛盾した姿勢こそが、幕末日本の特徴です。
敵と考える相手から学び、その力を自分たちのものにする。
そして学んだ結果、自分たちの最初の考えまで修正する。
その柔軟さが、幕末から明治への急速な変化を可能にしたのです。
最後に――「攘夷=反技術」と考えないことが理解の近道
幕末の攘夷を、現代の「外国製品を使わない運動」のように考えると、当時の行動は矛盾だらけに見えます。
しかし実際には、政治的な独立を守ることと、外国の技術を学ぶことは別の問題でした。
むしろ外国の脅威を強く感じた人ほど、相手の軍事力を詳しく知ろうとしました。
西洋銃や軍艦の導入は、攘夷思想を裏切った証拠というより、攘夷を現実の世界で実行しようとした結果、従来の方法では通用しないことを知った証拠でもあります。
この視点を持つと、幕末の人々が「反外国」から「西洋学習」へ簡単に寝返ったのではなく、国を守る方法を何度も修正していったことが見えてきます。
そして、この発想は明治政府の政策にもつながります。外国に対抗するために、外国を研究する。軍艦に負けないために造船を学ぶ。大砲に負けないために工業を育てる。外交で不利にならないために法律や外国語を学ぶ。幕末の「敵を知る」という姿勢は、明治の「国を強くする」という政策へ形を変えて受け継がれました。
このため、西洋兵器を使った攘夷派の姿は、思想の破綻ではなく、現実に適応した幕末人の学習能力を示すものと見ることができます。
その逆説こそ、幕末史の面白さの一つです。
決して単純ではありません。
