大政奉還したのに戦争? 幕末史最大級の「なぜ」
徳川慶喜は慶応3年(1867)10月、大政奉還を朝廷へ申し出ました。学校では「江戸幕府が政権を朝廷へ返した」と習います。すると当然、疑問が生まれます。
政権を返したのであれば、もう幕府と倒幕派が戦う必要はなかったのではないか。なぜその数か月後に鳥羽・伏見の戦いが始まり、戊辰戦争へ発展したのか。
答えは、大政奉還が「政治権力を返す決断」ではあっても、「徳川家の力をどうするか」「誰が次の政府を主導するか」「軍隊・領地・官職をどう再配分するか」までは決めていなかったからです。
幕府という仕組みは終わりへ向かっても、徳川家は巨大な領地、軍事力、家臣団、行政経験を持つ最大級の政治勢力でした。大政奉還はゴールではなく、幕府の次を誰がどう作るのかという新しい政治闘争の始まりだったのです。
大政奉還で慶喜は「すべてを捨てた」わけではない
大政奉還という言葉は、現代の感覚では「政権を辞任して完全に引退した」ように聞こえます。しかし徳川慶喜の考えは、そこまで単純ではありません。
国立国会図書館の人物解説でも、慶喜は高知藩の建白を受けて大政奉還を行い、その後も徳川家の政治的な復権を図った人物として説明されています。
つまり慶喜は、政治から永久に消えるために大政奉還をしたのではありません。幕府という古い形を解体したうえで、徳川家が新しい政治体制の中でも重要な位置を占める可能性を残していました。
当時の徳川家は圧倒的な大領主です。行政経験を持つ家臣団もいます。軍事力もあります。全国諸藩との関係もあります。「幕府」という名前をなくしたからといって、その力が一夜で消えるわけではありません。
土佐藩の構想も「徳川家を完全に排除する計画」ではなかった
大政奉還の背景には土佐藩の動きがありました。山内豊信、いわゆる山内容堂は、公武合体的な立場から政治改革を考えていました。国立国会図書館の解説では、後藤象二郎の進言を受け入れて慶喜に大政奉還を建白し、雄藩連合を構想したとされています。
ここで想定された政治は、徳川家を完全に消滅させるものとは限りません。幕府が政権を朝廷へ返し、その後は有力諸侯が参加する新しい政治体制をつくる。その中で最大級の大名である徳川慶喜が重要人物になることは十分あり得ました。
だからこそ大政奉還は、武力倒幕を回避する方法にもなり得たのです。
薩摩・長州側から見れば、大政奉還で問題は終わっていなかった
一方、薩摩や長州を中心とする勢力から見れば、話は違います。
幕府という看板が外れても、徳川家が巨大な領地と軍事力、政治的影響力を保持したまま新体制の中心に入れば、結局は徳川中心の政治が形を変えて続く可能性があります。
つまり「幕府をなくしたこと」と「徳川家の政治的優位をなくしたこと」は別問題でした。
倒幕・政治改革を進めてきた側にとっては、大政奉還だけで旧体制が完全に変わったとは言えませんでした。
王政復古は大政奉還とは別の段階だった
大政奉還からおよそ2か月後の慶応3年12月9日、王政復古の大号令が出されます。
国立公文書館の解説では、大政奉還の後に王政復古が行われ、摂政・関白・幕府を廃止し、天皇のもとに総裁・議定・参与の三職を置く新政府が成立したと説明されています。
これは大政奉還より踏み込んだ政治再編でした。幕府だけではなく、従来の朝廷側の政治制度にも大きな変更を加え、新しい政府の枠組みをつくったのです。
重要なのは、この新政府の人事と意思決定の仕組みに、慶喜がそのまま中心人物として参加したわけではないことです。ここから対立が一段と深まります。
「辞官納地」が大きな争点になった
王政復古後の政局で大きな問題となったのが、徳川慶喜の官職と領地をどうするかでした。
徳川家が巨大な領地と権力を保ったままであれば、新政府に入らなくても強大な政治力を維持できます。そこで慶喜に官職を辞し、領地の一部を朝廷へ返すことを求める議論が出ます。これがいわゆる辞官納地問題です。
慶喜側から見れば、大政奉還によって政権は返したのに、さらに徳川家そのものの力まで大きく削られるのは受け入れ難い話でした。
ここで「政権を返したのだから争いは終わり」という構図が崩れます。争点は政権の形式から、実際の権力と資源へ移ったのです。
大政奉還は「誰が次の政府を主導するか」を決めていなかった
現代の選挙なら、政権交代が起きれば次の政府の首相や議会の仕組みが決まっています。しかし幕末の日本では、幕府を廃止した後の国家制度が完成していたわけではありません。
天皇を中心とするとは言っても、実際の行政を誰が担うのか。徳川家は参加するのか。諸藩はどのような権限を持つのか。朝廷の公家はどこまで政治を行うのか。軍事力を誰が統制するのか。領地や税はどうするのか。
こうした問題は未解決でした。
そのため大政奉還後の政治は、「政権が空白になった後の主導権争い」という側面を持ちます。
慶喜にも支持する勢力がいた
大政奉還後の慶喜は、一人で孤立していたわけではありません。
幕府の家臣だけでなく、徳川家の政治的役割をある程度残すべきだと考える諸藩や有力者もいました。慶喜は将軍として高い政治経験を持ち、外交や軍事改革にも関わっていました。
急に政権から完全排除するより、新しい政治体制の中で活用した方がよいと考える人がいても不思議ではありません。
このため、新政府側でも徳川家をどのように扱うかについて意見は一枚岩ではありませんでした。
「倒幕派」と呼ばれる側も全員同じ考えではなかった
薩摩、長州、土佐、朝廷内の公家。これらをまとめて「倒幕派」とすると分かりやすいのですが、実際には目指す政治体制は異なっていました。
土佐藩は大政奉還による比較的平和な政権移行を重視しました。薩摩藩内でも全員が同じ意見だったわけではありません。長州も独自の事情を持っています。
つまり「幕府をどう終わらせるか」と「その後の国家をどうするか」は別の議論でした。大政奉還は前者に一定の答えを出しましたが、後者は解決しませんでした。
江戸と京都のあいだで緊張が高まった
政治対立が深まると、軍事的な緊張も高まります。旧幕府側には多数の兵力があり、新政府側にも薩摩・長州などの軍事力があります。
互いに相手の意図を警戒し、部隊が動けば「攻撃の準備ではないか」と疑われます。こうした状態では、小さな衝突が大きな戦争へ発展する危険があります。
まさにその危険が現実になったのが鳥羽・伏見の戦いでした。
鳥羽・伏見の戦いは「大政奉還の失敗」だけで起きたわけではない
鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍と新政府側の軍が京都南方で衝突した戦いです。
ただし、「慶喜が大政奉還を後悔して京都へ攻め込んだ」という一行だけでは説明できません。
王政復古後の政治的排除、辞官納地問題、旧幕府側の不満、江戸での騒乱、薩摩藩への反発、軍隊の移動など、複数の要因が重なっていました。
政治交渉で解決できなかった緊張が、軍事衝突へ移ったのです。
「朝敵」という政治的意味が戦争を大きく変えた
鳥羽・伏見の戦いでは、新政府側が朝廷の権威を背景に戦います。
幕末政治において、朝廷の権威は非常に大きな意味を持ちました。旧幕府軍側の兵士や諸藩にとって、自分たちが「朝廷に逆らう側」と認識されることは重大でした。
単純な薩摩対幕府の私戦であれば参加できても、天皇を中心とする新政府と戦うとなると意味が変わります。
この政治的な正統性の問題は、その後の戦況にも大きく影響しました。
慶喜はなぜ戦い続けず江戸へ戻ったのか
鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は大坂から江戸へ戻ります。その後、恭順の姿勢を示し、上野寛永寺で謹慎します。
国立国会図書館の人物解説でも、大政奉還後、慶喜は倒幕派に敗れて恭順・謹慎したとされています。
もし慶喜が最後まで徹底抗戦を命じていたら、戦争はさらに大規模になっていた可能性があります。しかし彼は最終的に徳川家そのものの存続も考え、全面戦争を避ける方向へ動きます。
それでも戊辰戦争は終わらなかった
慶喜が恭順しても、戦争は終わりませんでした。旧幕府側のすべての勢力が、慶喜と同じように新政府へ従ったわけではないからです。
東北諸藩では新政府への反発が強まり、奥羽越列藩同盟が成立します。旧幕府海軍の一部は榎本武揚らとともに北へ向かい、最終的には箱館で新政府軍と戦います。
つまり戊辰戦争は、「慶喜個人対新政府」だけの戦争ではありません。幕府解体によって立場を失う人々、各藩の事情、新政府への不信などが重なった全国的な内戦でした。
「幕府が終わること」と「幕府側の人々が納得すること」は違う
ここが大政奉還後の戦争を理解する重要なポイントです。
制度として幕府をなくすことはできます。しかし、250年以上続いた政治体制には、数多くの人々の生活が結びついていました。
旗本や御家人、幕府官僚、軍人、職人、商人、諸藩。幕府がなくなると、その人たちの地位や収入、将来も変わります。
新政府が成立したからといって、旧体制側のすべての人が「今日から従います」と考えるわけではありません。政権交代が軍事衝突になる危険は、そこにありました。
江戸城無血開城は「戦争の中にも交渉があった」ことを示す
戊辰戦争が始まった後も、すべての対立が戦闘で解決されたわけではありません。
江戸では新政府軍の総攻撃が予定されましたが、勝海舟と西郷隆盛らの交渉によって大規模な市街戦は回避されます。
もし江戸で大規模な戦闘が起きていれば、多数の市民が巻き込まれ、都市機能も壊滅的な打撃を受けた可能性があります。
ここには、大政奉還と同じく「政治的な妥協で内戦を小さくする」という考え方が残っていたことが分かります。
つまり幕末の政権移行は、戦争だけでも、平和的交渉だけでもありません。交渉と戦闘が交互に続いた複雑な過程でした。
徳川慶喜の評価が分かれる理由
徳川慶喜については、評価が大きく分かれます。
大政奉還によって日本の大規模内戦を避けようとした政治家と見る人もいます。一方、鳥羽・伏見では旧幕府軍を残して江戸へ戻ったことを「逃亡」と批判する見方もあります。
さらに、大政奉還自体も徳川家の政治的影響力を残すための巧妙な策だったと評価されることがあります。
重要なのは、どれか一つのイメージだけで慶喜を理解しないことです。
彼は幕府最後の将軍でありながら、幕府を自ら終わらせる決断をし、その後は徹底抗戦を選ばず恭順しました。この複雑さ自体が、幕末政局の複雑さを象徴しています。
よくある疑問
大政奉還で江戸幕府は終わったのか
政治権力を朝廷へ返す大きな転換でしたが、その直後にすべての幕府機構や徳川家の力が消滅したわけではありません。その後の王政復古によって、より明確に幕府廃止と新政府成立が進みます。
徳川慶喜は最初から倒幕派をだますために大政奉還したのか
慶喜が徳川家の政治的影響力を新体制でも残そうと考えていたことは指摘できますが、「単なるだまし」とだけ理解すると複雑な政局を見落とします。
大政奉還には武力衝突を避け、新しい政治体制に移る現実的な選択肢という面もありました。
大政奉還したのに、なぜ薩摩・長州は納得しなかったのか
幕府という制度がなくなっても、徳川家が巨大な領地・軍事力・政治力を保持すれば、実質的に強い影響力を持ち続ける可能性があったからです。
戊辰戦争は徳川慶喜と明治政府の戦争なのか
それだけではありません。慶喜が恭順した後も東北や箱館で戦争は続きました。旧幕府側のさまざまな勢力と新政府との政治的・軍事的対立が全国に広がった内戦です。
まとめ――大政奉還は「政権交代の完了」ではなく「次の政権をめぐる競争の開始」だった
徳川慶喜が大政奉還を行ったのに戊辰戦争が起きた理由は、大政奉還だけでは実際の権力関係が整理されなかったからです。
幕府という制度を終わらせても、徳川家には巨大な領地、軍事力、人材、政治的影響力が残っていました。
一方、新政府を主導しようとする勢力にとっては、その力をそのまま残せば旧体制が形を変えて続く危険があります。
そこで王政復古、辞官納地、新政府人事などをめぐって対立が激化しました。
大政奉還が解決したのは、「幕府が政治権力を持ち続けるのか」という問題です。しかし、徳川家をどう扱うのか、誰が新政府を主導するのか、どの軍隊が正統なのか、領地や税をどうするのか、という問題は残りました。
その未解決の争いが鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へつながります。
だから「政権を返したのに、なぜ戦争になったのか」という疑問への答えは、「政権を返すことと、実際の権力を再配分することは別だったから」と言うことができます。
大政奉還は幕末の終点ではありません。むしろ、幕府がなくなった後の日本を誰がどう作るかという、さらに激しい争いの出発点だったのです。
「大政奉還で平和的に終われた可能性」はなぜ消えたのか
大政奉還そのものには、戦争を避ける可能性がありました。幕府が政権返上を拒み、薩摩・長州側が武力討幕へ進めば、より早い段階で大規模な内戦になっていたかもしれません。その意味で慶喜の決断は、政権移行の道を開いた重要な政治判断でした。
それでも平和的に収束しなかったのは、各勢力が「新体制の中でどこまで力を持てるか」をめぐって譲れなかったからです。徳川家にとっては家そのものの存続と名誉がかかり、薩摩・長州側にとっては旧幕府が形を変えて復活することを防ぐ必要がありました。土佐藩のように徳川家を含む雄藩連合を構想する立場もあり、朝廷内にも複数の意見がありました。
つまり、全員が「幕府を終わらせる」点では近づいても、「その後の日本」を同じように考えていたわけではありませんでした。
政権移行と軍事力の移行は別だった
もう一つの重要な点は、政治権力の返上と軍事力の解体が同時ではなかったことです。
大政奉還の後も、旧幕府側には兵士、武器、艦船、城、資金があります。新政府側にも薩摩・長州などの軍が存在します。つまり政治制度は変わり始めているのに、複数の武装勢力が並立していました。
この状態は非常に不安定です。相手が兵を動かせば、自分も備えなければならない。備えのための移動が相手には攻撃準備に見える。こうして政治的不信が軍事的不信へ変わり、衝突の危険が高まります。
現代の政権交代では軍隊や警察は国家機関として同じ組織に残りますが、幕末の政権移行ではその前提がありませんでした。だから「政権を返したのに、なぜ戦争になったのか」という疑問は、当時の軍事力がまだ一つの国家に統合されていなかったことを考えると理解しやすくなります。
