「攘夷を唱えた人が西洋化を進めた」――これは本当に矛盾なのか

幕末から明治維新を学び始めると、多くの人が一度は同じ疑問を持ちます。

「外国を追い払え、西洋を排除せよと叫んでいた人たちが、どうして明治になると洋服を着て、西洋式の軍隊をつくり、鉄道を敷き、欧米へ留学し、西洋の法律や学校制度まで取り入れたのか。言っていることが逆ではないか」

たしかに、表面だけを見れば大きな矛盾に見えます。幕末の尊王攘夷運動では「攘夷」という言葉が強く叫ばれ、外国船を排斥しようとする動きもありました。ところが明治政府の中心には、かつて尊王攘夷運動に関わった長州・薩摩などの出身者が多く入り、彼らはむしろ急速な近代化を進めます。

しかし、この変化は「昨日まで外国嫌いだった人が、突然西洋好きになった」という単純な話ではありません。

当時の人々が恐れていたのは、西洋の文化そのものよりも、日本が外国の圧力に屈して主権を失うことでした。攘夷を唱えた人物の中にも、西洋の軍事力や科学技術を学ぶ必要性を理解していた人は少なくありません。そして実際に欧米の力を知るにつれて、「外国を追い払うには、外国と同じかそれ以上に強い国をつくらなければならない」という考えへ変わっていきます。

つまり、幕末の「攘夷」と明治の「西洋化」は、必ずしも完全に反対方向ではありません。どちらも「日本が外国に支配されないためにはどうすればよいか」という同じ危機意識から生まれた面があったのです。

そもそも「攘夷」とは何を意味していたのか

現代の言葉で「攘夷」を読むと、「外国人が嫌いだから外国を追い出す思想」と理解しがちです。しかし幕末の攘夷論には、もっと複雑な背景がありました。

19世紀の東アジアでは、欧米列強が軍事力を背景に強い圧力をかけていました。中国ではアヘン戦争が起こり、清がイギリスに敗れます。日本の知識人や武士にとって、それは遠い外国の出来事ではありませんでした。

「中国ほど大きな国でも西洋に敗れた。日本も同じようになるのではないか」

この恐怖が広がります。

ペリーが来航し、巨大な黒船と大砲を目の前にした人々が感じたのは、単なる文化的な嫌悪ではなく、国家そのものが存続できるかという危機感でした。

当時の日本には、近代的な意味で全国民が共有する「国民国家」という考え方が十分に成立していたわけではありません。しかし外国の軍事力に直面することで、「日本」という単位を強く意識する人が増えていきます。

その中で「外からの圧力を退ける」という意味を持った言葉が攘夷でした。

攘夷派でも西洋の武器を学ぶことは珍しくなかった

ここが現代人には最も不思議に見えるところです。

もし本当に西洋を完全に拒絶するのであれば、西洋式の大砲や銃を使うのも矛盾しているはずです。ところが幕末には、攘夷を唱えながら西洋の兵学や砲術を学ぶ人々が多くいました。

その理由は単純です。

「外国を追い払うためには、外国の武器を知らなければならない」

からです。

敵とみなす相手の技術を研究し、その技術を使って自分たちを強くすることは、当時の攘夷論者にとって必ずしも矛盾ではありませんでした。

たとえば佐久間象山は、早くから海外事情や海防を研究し、西洋兵学の必要性を認識していました。国立国会図書館の人物解説でも、象山が藩主から海外事情の研究を命じられ、「海防八策」を上書したことが紹介されています。彼はのちに開国論を主張するようになりますが、その根底には日本の防衛をどうするかという問題意識がありました。

つまり幕末の議論では、「西洋技術を学ぶこと」と「外国の政治的圧力に抵抗すること」は、最初から完全な反対概念ではなかったのです。

長州藩は実際に攘夷を行い、その限界を知った

尊王攘夷を強く掲げた代表的な藩が長州藩です。

長州藩は朝廷から攘夷実行の気運が高まる中、下関海峡を通過する外国船への砲撃を行いました。しかしその後、欧米諸国による強力な反撃を受けます。

この経験は、長州にとって非常に大きな意味を持ちました。

「攘夷を実行する」という理想と、「実際に西洋艦隊と戦う」という現実の間には、巨大な軍事力の差がありました。

精神論だけでは外国軍には勝てません。大砲の射程、艦船の性能、軍隊の編成、兵器の製造、資金、補給――あらゆる面で差がありました。

ここから長州の指導者たちは、単純に「外国を追い払え」と叫び続けるだけでは、日本を守れないことを学んでいきます。

伊藤博文は「攘夷派から近代国家の設計者」になった代表例

この変化を象徴する人物の一人が伊藤博文です。

国立国会図書館の人物解説では、伊藤は吉田松陰の松下村塾に学び、木戸孝允や高杉晋作らとともに尊皇攘夷運動に参加した人物として説明されています。

ところが伊藤はのちにイギリスへ渡り、欧米の国力を直接知ります。明治政府では岩倉使節団にも参加し、さらに憲法調査のため渡欧し、最終的には初代内閣総理大臣として近代国家制度の形成に深く関わりました。

若いころの尊王攘夷運動と、後年の西洋制度研究だけを並べれば、別人のように見えます。

しかし「日本を独立した強い国にする」という目標に注目すると、つながりが見えてきます。

若い伊藤にとっては、外国を排斥することが日本を守る道だと考えられた時期がありました。ところが外国の実力を知るにつれて、日本が対等に交渉するためには軍事・産業・教育・法制度まで含めて強くならなければならないと理解するようになります。

方法が変わったのであって、危機意識そのものが完全に消えたわけではありません。

「攘夷の失敗」が開国論への転換を生んだ

幕末の思想変化で重要なのは、理論だけで人々が考えを変えたのではなく、実際の経験が大きかったことです。

外国船への攻撃を行えば、外国側はより強い軍事力で反撃します。

外国人を追い払おうとしても、欧米諸国との貿易や外交関係を完全に断つことは現実的ではありません。

そして何より、当時の西洋諸国が持つ工業力や軍事力を無視して国を守ることはできませんでした。

こうした現実を経験したことで、攘夷の意味そのものが変化していきます。

「外国人を日本から物理的に追い払う」

という発想から、

「外国に支配されないほど日本を強くする」

という発想へと移っていったのです。

後者の考え方に立てば、西洋技術の導入は攘夷の反対ではありません。むしろ外国に対抗するための手段になります。

薩摩藩も外国との戦争から学んだ

長州だけではありません。薩摩藩も生麦事件をめぐってイギリスとの戦争、いわゆる薩英戦争を経験しました。

薩摩は決して小さな藩ではなく、軍事力にも自信を持っていました。しかし世界有数の海軍力を持つイギリスと戦うことで、西洋の軍事技術の水準を実感します。

その後の薩摩は、イギリスとの関係を深め、西洋技術や兵器を積極的に導入していきます。

これも「戦った相手と仲良くなった」というだけではありません。

実際に戦ったからこそ、相手の強さを理解したのです。

敵の強さを認めることと、その国の支配を受け入れることは別です。むしろ薩摩にとっては、「この相手と対等に向き合える力を持たなければならない」という現実的な判断につながりました。

「開国派」と「攘夷派」も固定されたグループではなかった

幕末史を教科書的に整理すると、人物を「開国派」「攘夷派」「公武合体派」「倒幕派」などのラベルで分類したくなります。

しかし実際の人物の考えは、時期によって大きく変わります。

松平慶永は当初攘夷的な立場でしたが、のちに積極的な開国論へ転じた人物として国立国会図書館でも紹介されています。

江藤新平も尊王攘夷運動に加わった後、開国論を唱えています。

このような例を見ると、幕末の人々が最初から最後まで同じ思想を持ち続けていたわけではないことが分かります。

政治状況、外交関係、戦争、海外情報、実際の外国人との接触によって、考え方は変わっていきました。

明治政府の「西洋化」は外国への降伏ではなかった

では明治政府が急速に西洋制度を取り入れたのは、「結局、西洋に負けたから全部まねした」ということなのでしょうか。

これも単純ではありません。

明治政府の指導者たちが強く意識していたのは、欧米諸国と対等な国家になることでした。

そのためには近代的な軍隊が必要です。税制が必要です。学校制度が必要です。鉄道や通信が必要です。外交を担う官僚組織も必要です。

さらに幕末に結ばれた不平等条約を改正するためには、「日本にも欧米諸国と比較できる近代的な法制度がある」と示す必要がありました。

西洋化は、単なる文化的な憧れではなく、国家存立のための戦略でもありました。

西洋を学ぶことと、西洋に従うことは違う

ここを区別すると、幕末から明治への思想変化が分かりやすくなります。

西洋の技術を学ぶ。
西洋の制度を調べる。
西洋の軍事力を参考にする。

これらは必ずしも、

西洋の政治的支配を受け入れる。

という意味ではありません。

むしろ明治政府の指導者には、「西洋をよく知らないまま拒絶するより、西洋を徹底的に研究して、その強さを日本自身のものにする」という発想がありました。

岩倉使節団の派遣も、その象徴的な出来事です。

欧米諸国を実際に見て、制度、産業、教育、軍事、都市、工場などを調査し、日本の改革に利用しました。

尊王攘夷の「尊王」の部分も明治政府につながった

尊王攘夷という言葉は、「攘夷」だけに注目すると明治政府と矛盾して見えます。

しかし「尊王」に注目すると、別の連続性が見えます。

幕末の尊王論は、天皇を政治的な権威の中心として重視する考え方でした。

明治維新では幕府が廃止され、天皇を中心とする新政府が成立します。

つまり尊王攘夷運動のすべてが消えたわけではありません。

「外国を物理的に排斥する」という攘夷の方法は現実に合わなくなりましたが、国家統合の中心として天皇を位置づける方向は新政府に引き継がれていきました。

木戸孝允や西郷隆盛も「同じ思想のまま」では理解できない

長州の木戸孝允や薩摩の西郷隆盛を見ても、幕末の政治家は変化し続けています。

木戸は尊王攘夷運動に深く関わった長州藩の中心人物でした。しかし維新後は新政府の制度づくりに参加し、近代国家建設を進める側になります。

西郷隆盛も幕末の薩摩藩政、長州征討、薩長提携、倒幕、新政府という複数の局面で立場と役割を変えました。

こうした人物を理解するとき、「最初に持っていた思想を最後まで守ったか」という基準だけで見ると、多くの行動が矛盾して見えます。

しかし彼らが直面した状況そのものが変わり続けていました。

状況が変われば、同じ目的のために方法を変えることがあります。

「開国」と「不平等条約への反対」は同じではない

幕末の議論では、外国との交流を認めることと、幕府が結んだ条約の条件をそのまま受け入れることは別問題でした。

外国と貿易する必要は認めても、日本側に不利な条約条件には反対できる。

外国から技術を学ぶ必要は認めても、外国の圧力で政策を決められることには反発できる。

この違いを理解すると、元攘夷派の人々が開国後の国家建設に参加した理由がさらに分かりやすくなります。

彼らが目指したのは「外国を知らない日本」ではなく、「外国と対等に交渉できる日本」でした。

明治政府が条約改正を長期的な外交目標にしたことも、この連続性の中で見ることができます。

なぜ思想転換がこれほど速かったのか

普通の時代であれば、一つの政治思想が大きく変わるには長い時間がかかります。

しかし幕末は、数年の間に黒船、条約、外国人居留、暗殺、戦争、長州征討、薩長同盟、大政奉還、戊辰戦争が連続しました。

政治家や志士たちは、数か月前の常識が通用しなくなる環境で判断を続けています。

この異常な速度こそ、「去年は攘夷、数年後には海外視察」という急激な変化を生みました。

人物の発言を一つだけ切り取って「この人は一生こう考えていた」と決めつけるより、いつ、どの状況で、何を経験した後の発言なのかを見ることが重要です。

よくある疑問

尊王攘夷とは「外国人嫌い」という意味なのか

それだけではありません。

外国への反感を伴う場合もありましたが、欧米列強による政治的・軍事的圧力から日本を守るという危機意識が重要でした。

攘夷派なのに西洋兵器を使うのは矛盾ではないのか

一見すると矛盾しますが、「外国に勝つために外国の技術を学ぶ」という発想に立てば両立します。

実際、幕末には海防や洋式兵学を学びながら攘夷を論じる人がいました。

なぜ長州や薩摩は考えを変えたのか

外国との軍事衝突を経験し、西洋の軍事力を現実に知ったことが大きな要因です。

理念だけでは外国軍に対抗できないという認識が広がりました。

明治政府は西洋の言いなりだったのか

そう単純ではありません。

西洋制度を学んだ目的の一つは、日本自身を強くし、欧米諸国と対等に外交できる国家をつくることでした。

まとめ――「攘夷から西洋化」は180度の裏切りではない

尊王攘夷を唱えた人々が明治になって西洋化を進めたことは、一見すると大きな矛盾に見えます。

しかし、その間に何が起きたのかを見ると理解しやすくなります。

幕末の人々は、欧米列強の軍事的圧力に直面しました。

最初は「外国を追い払えば日本を守れる」と考える人が多くいました。

しかし実際に戦ってみると、西洋の軍事力は圧倒的でした。

そこで、

「外国を追い払う」

から、

「外国に支配されないほど強い国家をつくる」

へと発想が変わっていきます。

そのためには外国の技術、制度、軍事、教育、産業を学ぶ必要がありました。

つまり、方法は大きく変わりましたが、「日本の独立を守りたい」という危機意識には連続性がありました。

幕末から明治への転換を理解するうえで重要なのは、人物を固定した思想ラベルで見るのではなく、彼らが新しい現実を知るたびに考えを変えていった過程を見ることです。

そう考えると、「攘夷を唱えた人が西洋化を進める」という不思議な現象は、矛盾というより、激動する世界の中で日本が生き残るために行った急速な学習と戦略転換だったことが見えてきます。

幕末の「矛盾」を読むときに大切なこと

このテーマで最も避けたいのは、人物を一つの言葉だけで固定することです。尊王攘夷派、開国派、倒幕派、公武合体派といった分類は理解の入口として便利ですが、当時の政治家や志士は数年の間に立場を変えています。重要なのは、変化したこと自体を「裏切り」と決めつけるのではなく、何を見て、どのような失敗を経験し、どの現実に対応しようとしたのかを追うことです。

幕末の日本は、世界の軍事・経済・外交秩序を急激に学ばなければならない状況に置かれていました。だからこそ、最初の主張と後年の政策が一致しない人物が多くいます。その不一致こそ、彼らが現実に合わせて学び続けた証拠でもあります。

「昔は攘夷だったのに、後で西洋化したから矛盾している」と見るより、「攘夷という目的を掲げた人々が、実際に世界を知った結果、国を守る方法を変更した」と見る方が、幕末から明治への流れをより正確に理解できます。